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 それからハウとイリマの修業が始まった。
 ハウはイリマのアドバイスを中心に、ポケモンたちが使う技を一から見直した。それはどんな効果がある技なのか、威力や命中率はどれくらいか、どのタイプのポケモンに有利なのか。イリマの書棚から資料を借りて、理解を深めれば深めるほど、今までいかに漫然と技を選んでいたかを思い知った。
「手持ちポケモン全体の中で、その技がどんな意味を持つのかも考えましょう。例えば苦手な岩タイプを前にしてブースターを交代させる時、誰のどの技で応じますか?」
 打ちひしがれる暇もなく、イリマはさらに一歩進んだ視点をハウに示した。ハウは必死で食らいついた。
 本ばかり眺めているわけにもいかなかった。技を理解し、覚えさせる四つを決めたら、実戦でそれがどう出るかを確かめなければならない。幸い、イリマが多くの技マシンを使わせてくれた上に、バトルの相手も申し出た。ハウは遠慮なくイリマの胸を借りることにした。
「ライチュウ、かわら割り!」
 ライチュウの鋭い体当たりが、イリマのデカグースを縦方向に打ち抜いた。いつもと違う体の動かし方に、ライチュウからも戸惑いと興奮がにじみ出ている。
 だが残念ながら新しいその技は、デカグースを一撃で倒すには至らなかった。「かみ砕く」の反撃を受けて、ライチュウはあえなく戦闘不能になる。
「うーん、効果は抜群だと思ったのになー。」
 ライチュウをボールに戻しながら、ハウは口をへの字に結んだ。イリマは「いえ、悪くない選択だと思いますよ」とフォローする。
「ちなみに、なぜかわら割りを選んだのか聞かせてもらってもいいですか?」
「うんー。おれのライチュウ、悪タイプに弱いでしょ。だからー、先手必勝で格闘タイプの技を出せたらいいなって。あと、ライチュウは特殊攻撃が得意だって相手も知ってるだろうから、その不意をつこうとも思ったー。けど反撃されちゃうんじゃ意味ないなー。」
 うーんと腕組みをして考え始めたハウを、イリマはやや驚きの目で見つめていた。タイプ相性を補完する技、ポケモンの特徴と、相手の思考。ポケモンバトルにおいて重要な考え方を、ハウはこの短期間でスポンジのように吸収していた。それらの知識をどのように使えばいいのかも、おそらく半分は直感的に理解している。幼い頃から上級者のバトルを間近で見る機会のあった、しまキングの孫ならではの環境のおかげだろうか、あるいはハウ自身の天性の才能か。
 いずれにせよこの子は強くなる。それこそ、島巡りチャンピオンにだってなれるぐらいに。
 イリマはぞくりとして、微笑んだ。

 ハウがイリマの元に通い、指導を仰ぎ始めて数日が経った頃だった。
 たくさんの書や資料から技と戦術について学び、イリマを相手にした実戦でいくつもの経験を積んだハウの戦い方は、だいぶ煮詰まっていた。ポケモンたちもずいぶん強く成長した。
 けれどもその日、ハウはイリマの部屋のローテーブルの上で分厚い本を一冊開き、もうかなりの時間しかめっ面でページをくっていた。本の隣に置いたノートに時々ペンを走らせては、また納得のいかない様子でうーんとうなる。
「少し休憩しては?」
 イリマがテーブルの上にバスケットを置いて提案した。バスケットの中には、薄く焼いたクッキーのような丸い菓子が山盛り入っていて、バターの良い香りがふわりと空気に溶けた。
「ミアレガレットです。ボクこれ好きなんですよ。」
 言ってイリマはひょいと菓子をつまみ上げて口に運ぶ。さくさく小気味よい音とイリマの笑顔に誘われて、ハウもようやくほおの強張りを解いた。いただきます、とガレットを食べると、軽快な歯触りの甘く濃厚な味わいが、思いのほかじわりと体に染みこんでいくのが分かった。空腹も忘れるぐらい没頭していたらしい。すぐに二つ目に手を出したハウに、イリマはにこにことバスケットを差し出した。
「それ、昨日からずっと読んでいますね。技辞典、ですか。」
「そう。おれねー、アシレーヌたちの技、まあまあいい感じに組めたと思う。だけど、まだだめなんだ。あと少しだけ足りないところがあって、でもどうやって技を組めばいいのか思いつけなくって……。」
 いくつもの技の名前とポケモンのタイプを書きだしたノートは、丸やらバツやら矢印やらが重なり合って真っ黒になり、汗でしっとりとしわが寄っていた。ちょっと失礼、とイリマはそのノートを手に取って、少し黙る。
 イリマがノートを返したのは、ハウが四個目のミアレガレットを食べようかそれとも遠慮しておこうか考えていた時だった。
「ハウさん。もし、ハウさんに異存がなければなのですが。」
 そう言ってイリマはハウに背を向けて、なにやら机の中をごそごそと探した。振り返ったイリマが手にしていたのは、一個のモンスターボール。
「この子を、受け取っていただけませんか。」
 驚くハウの目の前で、イリマはボールを開けた。光に包まれ現れたのは、ネッコアラだった。
「わーっ、可愛い!」
 見慣れないポケモンに、ハウは思わず興奮の声を上げる。ネッコアラの口元が、むにゃむにゃと恥ずかしそうにゆるんだ。
「あっ、照れてるのかなー?」
「どうでしょうね。いつも眠っているポケモンですから、夢を見ているだけだとも、実は周りの状況を寝ながらにして把握しているのではないかとも言われています。」
 ハウはしげしげとネッコアラを眺めた。それから顔を上げて、
「イリマさん、この子を受け取ってほしい、って……。」
 戸惑いと嬉しさのないまぜになった声で言った。イリマはうなずく。
「言葉通りの意味です。このネッコアラを、ハウさんのポケモンにしてもらえないでしょうか。」
 ハウはまだ少し困ったように、ネッコアラを見た。そっと手を伸ばし頭をなでてやると、寝言のような鳴き声をこぼしながら気持ち良さそうに反応する。つやつやとなめらかな毛並みの、きれいなポケモンだった。このネッコアラがイリマにどう扱われてきたか分からないほど、ハウはポケモントレーナーとして未熟ではなかった。
 迷うハウに、イリマはハウさん、と呼びかける。
「キミの悩みに、この子なら答えられるとボクは思っています。今のキミのポケモンたちでは特定のタイプに対して決定打を持てない……それで苦しんでいますね? ならば決定打を持つポケモンを、新たな仲間にすればいいのです。」
 ハウはハッとした。手持ちポケモンを増やす。そんな簡単なことをどうして思いつかなかったのだろう。悩みの内容を見抜かれたのもさることながら、凝り固まった自分の視点をいとも簡単にほぐすイリマの導きに、ハウは改めて感嘆した。
「でも、本当にいいのー? このネッコアラ、イリマさんの大事なポケモンなんでしょー?」
「大事だからこそ、ハウさんに託したいのですよ。」
 イリマはかがみこんで、ネッコアラの頭に手を置いた。
「ボクはノーマルタイプのポケモンが好きです。彼らはとても器用で、思いもよらないタイプの技を覚えるんです。もちろんネッコアラも例外ではありません。彼らによって生み出される戦術を、ボクはもっともっと試したい。ここメレメレ島でキャプテンをしながら、あるいは先輩としてトレーナーズスクールの後輩たちを教えながらね。けれども……」
 イリマは小さくため息をついて、ネッコアラをなでる。優しい手つきの下ですやすやと眠るネッコアラは、まるで親にあやされて安心しきった子どものようだった。
「このネッコアラはどうやらそれを望んでいないようなのです。一つ所に留まるよりも、いろんな場所に行きたいらしい。ボクもできる限り彼女の希望に応えられるよう努力はしてきたつもりなのですが……。」
 ハウさん、とイリマは再びハウの目を見据えた。
「キミならネッコアラの可能性を最大限に活かしながら、彼女にたくさんの景色を見せてくれるでしょう。これはハウさんへの協力というよりもむしろ、ボクたちの勝手なお願いなのです。どうかこのモンスターボールを、受け取ってもらえないでしょうか。」
 ハウはネッコアラを見た。うつらうつらとゆっくり揺れるネッコアラは、眠っているのにどこか緊張したような雰囲気で、問いかけるようにハウの方に体を寄せた気がした。
 ハウはイリマに向き直ると、うなずいた。
「おれー、ネッコアラのこと、大事にするよ。」
 そしてモンスターボールを受け取った。両手で包みこんでその重さを確認した後、ハウはネッコアラと目の高さを合わせる。
「アローラ! おれねー、ハウ! 今日からよろしくねー。」
 ネッコアラが鳴いた。もしそれが夢の中でつぶやいただけの声だとすれば、今ネッコアラが見ているのはきっとこの状況と全く同じ夢に違いない。イリマへの感謝と告別と同時に、ハウへの挨拶と期待がこもったその響きは、とても偶然に出るものではなかった。
 イリマがほっとしたような、少し寂しそうな顔で、微笑んでいた。


 その日の夜。ハウは自宅のベッドの上で、ネッコアラをゆっくりとなでていた。初めて連れるポケモンなので、観察するほど発見があるのが面白い。例えば触ると特に気持ち良さそうにするのは、ほおの白い綿毛。少し嫌そうにするのが足の先っぽ。ずっとしがみついているまくら木からはちょっとやそっとでは離れず、まくら木を持ち上げればくっついたネッコアラを一緒に宙に浮かせることができた。



 そうしてハウがネッコアラに触れて遊んでいる間も、ネッコアラはずーっと目を閉じたままだった。話しかけると返事のような声をあげたり、口元に運ばれたポケマメをもぐもぐと食べたりする様子は、実は起きているのではないかと疑いたくなるほどだ。しかし今はその反応もずいぶん鈍くなって、本当に眠っているようだった。いつも眠っているといっても、その深さには波があるのかもしれない。
「今日はいーっぱいバトルしたもんねー。ありがとー。お疲れ様、ネッコアラ。」
 ゆっくりとほおの綿毛をなでてやると、くすぐったがって笑うような寝息が、ぷぅとネッコアラの鼻からこぼれた。
 イリマからネッコアラを譲り受けた後、ハウはすぐにイリマの本棚からポケモン図鑑を選び出して、技辞典の横に並べた。ネッコアラのページを開いて生態や習性についてざっと目を通し、覚える技を調べ始めたところでハウは驚く。ネッコアラはとても多彩な技を使いこなせるポケモンだった。ノートを真っ黒にしても答えが出ないほど悩んでいたのがうそのように、試したい技の組み合わせがどんどん浮かんできた。技マシンを使い、イリマにバトルの相手をお願いして、また別の技を試す。気がつけば検討済みの技マシンが山と積まれていて、太陽もとっくに沈み、夜空に星がまたたいていた。さすがのイリマも疲れた表情をしていて、申し訳なく思ったものだ。
 しかしおかげでバトルのイメージはだいたい固まった。こんなにほっとした気持ちでポケモンをなでるのは、なんだか久しぶりのような気がする。
 おれはやっぱり、ポケモンが大好きだな。ネッコアラの安らかな寝顔は、ハウのその気持ちをふつふつと揺り起こした。最近はバトルのことばかり考えていて、そんな当たり前のことを置き去りにするところだった。
(もしかしてイリマさん、そこまで見越しておれにネッコアラをくれたのかなー。)
 それはさすがに考えすぎかーと、ふふっと微笑んでハウもベッドに寝転がった。
 ああ、おれ、ポケモンと一緒にどこまでも行きたい。どこまでも行きたいんだ。
 クチナシに負けた時に沈んでしまった闘志が、今またハウの胸の奥でちりちりと光を放ち始めた。
 明日、クチナシさんの大試練を受けるため、ウラウラ島に出発しよう。
 目を閉じて深呼吸し、ハウはそう決めた。



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