リリィタウンの夜は静かで暗い。太陽の動きに合わせて生活が営まれる村では皆、日が沈むと仕事を終えて家に帰り、各家に灯る明かりも夜が深まるにつれてぽつりぽつりと消えるからだ。
昼間あんなに熱かった空気も、今は穏やかに人やポケモンを包む。さわさわと夜風に揺れる葉擦れの音に、これから狩りに出かけるコラッタの遠い声。むにゃりとかすれた音の切れ端は、夢の中でさえずっているのだろうツツケラの寝言だ。 幼い頃から聞きなじんだ夜の歌をぼんやりと耳にしながら、ハウはベッドの上でごろんと寝返りを打った。一緒に寝ていたピカチュウが、そっぽを向いてしまったハウの顔を追いかけて胸元にもぐりこんできた。 「ピカチュウー。よしよし……。」 ハウはピカチュウをぎゅうと抱きしめる。触れた肌を通じて互いの体温が行き交い、ピカチュウも甘えるように額をハウのほおにすりつけた。 「今日はよく頑張ったね。かっこよかったよ、ピカチュウ。」 やわらかな毛皮の上で手をゆっくりと往復させると、ピカチュウは心地よさそうに目を細めて小さく鳴いた。 今日、ハウはメレメレ島の大試練に挑んだ。激しいバトルに終止符を打ったのがピカチュウの技で、ハウは見事しまキングハラに勝った。ハラから称賛と共にZリングを授かり、トレーナーパスには大試練達成の証としてスタンプを押してもらった。ハラの大試練が終わった。 それこそが、ハウの寝付けない理由だった。 大試練達成の喜びと興奮に目がさえてしまったわけではない。逆だった。明日から身につけるZリングの存在が、カプ・コケコの模様をくっきりとかたどって消えないインクが、ハウの心を意に反して沈めていた。ハラの大試練が終わってしまった。 これでもう何度目だろうか、大試練のバトルに決着がついた場面をハウは思い出す。 リリィタウン中央に設置された舞台の上に、ハウとハラは立っていた。 村の入口から遠い側の端に立つのはハウ。反対側で迎え撃つのはハラ。 多くの村民がぐるりを囲み、めいめいに応援や興奮の声をあげながら大試練の行方を見守っていた。 舞台の真ん中ではピカチュウとマケンカニが向かい合い、じりりと静かな火花を散らしてにらみあっていた。激しい攻防の末、お互い最後のポケモンである。どちらかが倒れた時点でバトルは終わる。 「ピカチュウ、エレキボール!」 先に口を動かしたのはハウだった。指示を受けたピカチュウは素早い動きで間合いを詰め、発生させた電気の玉を力の限りマケンカニに投げつけた。しびれるような爆風がトレーナーたちの肌をかすめる。この一撃で決めてみせると、固い意思の込められた玉は間違いなくマケンカニに直撃した。 だが、マケンカニはぎりぎりのところで耐えきった。 マケンカニが反撃の体勢を取る。 ハラの腕がすっと天に掲げられる。 Z技。ハウはごくりと唾を飲み、ピカチュウに与える指示を必死で考えた。絶対にじーちゃんに勝ちたいんだ! 真っ直ぐな目でハラを見た。ハラもハウを見た。 その瞬間、ハラがふっと目を伏せた。えっと思う間もなく、掲げられたハラの腕はそのまま何の軌跡も描かず、ただマケンカニに向かって伸ばされた。 「グロウパンチ!」 Z技、じゃない。 ハウの頭は真っ白になった。 確実に相手を狙いつつ次の一手の準備を兼ねた拳がピカチュウをとらえる。ピカチュウの甲高い悲鳴が鼓膜を震わせ、勢いに乗ったマケンカニの追撃の構えが目に入ったところで、ハウは我に返った。 「電光石火!」 追撃の準備が完了する前に通る技を。考える前に感覚で選んだ攻撃方法を、ピカチュウは忠実に実現した。グロウパンチによって吹き飛んだ体を四足でしっかりと受け止めるやいなや、反動をつけて床を蹴りとばし、目にも留まらぬ勢いでマケンカニに突進した。その動きをとらえきれず、マケンカニは稲妻のような体当たりを真正面から食らい、どっと壇上に倒れた。マケンカニが起き上がることはなかった。 わーっと歓声が上がった。 ハラがマケンカニをモンスターボールに戻した。 バトルが、終わった。 ピカチュウが足元に駆け寄ってきてハウを見上げた。ハウは少しの間それに気づかずぼうっと立っていたが、やがてはっとしてピカチュウを見やり、ゆっくりひざを折るとその頭をなでてやった。 「強くなりましたな、ハウ。」 ハラが側に来て微笑んでいた。 「大試練達成おめでとう。良いバトルでした。」 優しい眼差しだった。ハラの本気の形相など、ハウは久しく見た記憶がなかった。 うん、と答えてハウは笑った。じーちゃんに勝って、大試練を達成した。その上良いバトルだったと褒められた。嬉しくないはずがない。いつも以上の笑顔が出るはずだった。それなのに口元の皮膚はひどくこわばって、無理やり誰かに引っ張られているような心地がした。 「でも、じーちゃんのゼンリョク技、見たかったなー。」 声の震えを隠すのに精一杯で、やっとそれだけ言えた。 ハラは、はっはっはと声を上げた。 「今回はその間もなく決着がついてしまいましたな。孫がここまで成長して、わしも誇らしいですぞ。」 ハウはうつむき、うなずいた。労いとしては十分すぎるほど、ただピカチュウの頭をなで続けた。 「あの時、なんでじーちゃんZ技を使わなかったんだろう……。」 ベッドの中で、ハウはほとんど音のない声でつぶやいた。右手をぼんやりとピカチュウの頭に置き、バトルが終わった時と同じようにゆっくりとなで続けていた。 ピカチュウは他の所もなでてほしかったのか、ハウの手をするりと抜けて、鼻がくっつくぐらい間近に顔を寄せてきた。突然視界いっぱいを覆ったピカチュウの輪郭に、ハウは少し笑みをこぼす。背中の茶色い模様がある辺りでわしわしと指を動かしてやると、ピカチュウはくすぐったそうに小さく鳴いた。 「おれさー、昔、じーちゃんの本気の顔見て、泣き止まなかったことがあるんだって。」 聞き取れるかどうかのかすれた声で、それでも先の独り言よりはずっと相手に伝えることを意図した音量で、ハウはぽつりと語り始めた。 「小さい頃の話だからおれはよく覚えてないんだけど、たぶん怖かったんだろうな。それ以来じーちゃん、おれを怖がらせないように気をつけてくれてるみたいなんだ。おれの前では本当に本気のバトルは見せなかったし、どうしてもめっちゃ強いトレーナーさんと戦わなきゃならない時には、おれのいない所でバトルしてた。」 ハラはいつもハウを見ていた。どんなに激しい勝負の時もいつも、片目でハウを見守っていた。その激しい形相としまキングの威圧がハウを怖がらせないように、いつも気を遣ってくれていた。 「おれ、島巡りして強くなったら、もうそんなことなくなるって思ってた。でもまだまだ全然、だめだったんだな。」 ピカチュウはじっと耳を立て、ハウの話を聞いていた。内容まで理解してくれているかどうかは分からなかったが、こうして側にいてくれるだけで、自分のではない温度がそこにあるだけで、どこかほっとした気持ちになれた。 ハウはピカチュウを抱き寄せた。 「ごめんなーピカチュウ。せっかく頑張ってくれたのに。でもおれ、こんな大試練の終わり方、望んじゃいなかった。メレメレ島の、じーちゃんの、しまキングハラさんの大試練がこんなふうに終わるなんて……おれ、悔しいよ。悔しい。」 ちっとも寒くないのに、体が小刻みに震えて止まらなかった。かすれの上に揺れまで加わったささやきは、もうほとんど声とも呼べないものだったが、それが夜闇に溶けず言葉の形になったのは、ひとえに心の底からの感情が込められていたからだった。 「おれ、もっと、強く、なりたい……。」 もぞ、と腕の中のピカチュウが身じろいだ。それから湿った温かいものがハウの目尻に当たる。チュウ、と耳に届いた鳴き声の近さから、ピカチュウの顔がハウの顔と重なっているのだと分かった。ピカチュウは同じ場所をもうひとなめした。ハウは弱々しく微笑んだ。 「ありがとー、ピカチュウ。大丈夫だよ……。」 ピカチュウを抱きしめなおしながら、我ながら分かりやすいうそだとハウは思う。こんな力のない「大丈夫」なんてあったもんじゃないと、ポケモンだって気づくだろう。 ただ、ピカチュウの温もりを腕に抱いて、体の震えはおさまっていた。大丈夫、と口にしてみればあながちうそでもないのかもしれない。隣にポケモンがいるのだから。強くなりたいと願うハウの側には、ピカチュウもアシマリもいるのだから。 「……島巡りだって、まだ半分も終わってないもんね。」 自分の言葉に自分でうなずく。そうだ。きっとこれからまだまだ多くのものが待っているだろう。嬉しいことも、悔しいことも、まだ見ぬ人も、ポケモンも。今まで以上にたくさん。そう考えるとちょっぴり不安で、同時に不安よりもずっと楽しみな気持ちが湧きあがってきた。 「アーカラ島、どんな所だろうな。どんなポケモンが住んでるんだろう。あっ、マラサダショップ、いっぱいあるといいなー。」 今日を振り返ってくよくよするよりも、明日からの希望に胸を躍らせよう。半ば無理やり自分にそう言い聞かせたハウの心臓の音は、ぴったりくっついたピカチュウにはよく聞こえたのかもしれない。ピカチュウはハウの言葉に答えるように、静かな夜のビロードを破いてしまわない程度に、精一杯元気な声でささやき鳴いた。 ハウはピカチュウの体をなでながら目を閉じ、そのままようやく眠りについた。 次(ハウとイーブイ)→ ←前(ハウとマケンカニ) 目次に戻る |