安立純守がいつも触っている機械を、だって少しは扱うことができた。インターネットに接続して、検索結果を画面に表示させることぐらいは。
今が映し出した画面には、コーヒーの種類と美味しい淹れ方のポイントが列記されていた。 話は少し前にさかのぼる。 安立がマグカップをひとつ手に取って眺めていた。それはデータによって作り出されたものではなく、現実空間にある物体をデータ変換してアンダー・バンクに持ち込んだものだった。マグカップについた小さな傷や薄い染みが、にそれと分からせたのだ。データで作り出したものに、あんな細かな情報は入っていない。 「使い込まれたマグカップですね。」 が話しかけると、安立はうん、と生ぬるい返事をした後、ああと一拍遅れてうなずいた。彼は少し別の場所にいたようだ。 「ずいぶん昔に使っていた物さ……。プログラミングの合間に、これでよくコーヒーを飲んだものだ。」 「その頃を思い出してたんですか。」 「…………。」 安立は、ある所に若いプログラマーがいてね、とぽつり言った。 「 どんなものもデータ化できると信じていた。 こういったマグカップの傷も、紙幣や硬貨についた汚れさえも。彼は、金額の大小では表せないカネの価値を、証明したかったんだろうねえ。 」 安立はしばらくマグカップを見つめた後、それを机上に置き手を離した。それから、 昔聞いたどこかの誰かの話さと言葉を落とした。その表情は微笑んでいるのに、ひどく物憂げだった。 は、黙ってマグカップに手を伸ばした。包み込むように手に持ったそれは案外重く、何回もコーヒーを淹れるのを面倒くさがるプログラマーにはぴったりの、容量の大きなカップだった。 「コーヒー、好きなんですね。」 「うん? まあ、嫌いじゃないな。」 それから安立はマグカップを置いたまま立ち去った。もうそれに意味を見出していないのか、それとも意味あるそれをに預けている限りは大丈夫と思ったのか、彼の後ろ姿からは判断出来なかった。 そんな会話があった後、はコーヒーについて調べ始めたのだった。美味しいコーヒーでも飲めば、安立の笑みも少しは晴れたものになるかと思って。 コーヒーには様々な種類がある。まず豆の種類とそのブレンド比率。それから煎り方と挽き方。淹れ方も多様だ。出てくる専門用語は、アラビカ、カネフォラ、ハイ、フルシティ、ペーパードリップにサイフォン式……。 「調べものか、。」 「。」 セキトが通りざま、の肩越しに画面をのぞく。並んでいる文字列が見慣れないものだったか、セキトはしばらく内容を読んでいた。 「ねえ。の好きなコーヒーの味って分かる?」 「安立純守の? ……悪ぃな、。オレにはそういうのは分からねえんだ。」 「ああ、いや、いいの。これはそんな簡単に分からないと思う。コーヒーっていっぱい種類があってさ……。」 手伝えなくてすまねえなと言うセキトを、は気にしないでと見送った。 さて、はあのマグカップでどんなコーヒーを飲んでいたのだろうか。は再び画面に戻る。作業の合間の口寂しさを紛らせる用なら、あっさりと飲みやすいものが好みかもしれない。いやそれとも、眠気も吹き飛ぶ強い苦味のものだろうか。 色々な情報を行ったり来たりしていると、視界の端でセキトの黒い髪束が揺れた。戻ってきたのか。 「あら、、の好きなコーヒー分かった?」 尋ねた相手は、安立純守だった。はびっくりして思わず体をのけぞらせる。安立はその反応を見て、そんなに驚かなくてもいいじゃないか、と肩をすくめた。 「い、いつからそこにいたんですか、。」 「なに、ついさっき来たところだ。セキトだと思ったのかい?」 「はい……。二人はよく似てますね。特にそのくせっ毛とか。」 「はっはっは。一応、親子だからな。」 それから安立は画面をのぞき、コーヒーか、とつぶやいた。 「、もしかして私のためにそれを?」 「えっと……はい。お気に入りのマグカップで美味しいコーヒーを飲めば、もちょっとは元気になるかなって……。」 ほう、と安立はを見つめた。いつも大概のことには動じず、すべて私の予測範囲だとでもいうような態度の彼が、その時は少し意外そうだった。 「は優しいな。」 「がそう造ったんじゃないんですか。」 「はは……うむ、そういうことにしておこうか。」 では可愛い私のプログラムよ、と安立はの頭にぽんと手を置く。 「君のデータベースに情報を一つ追加してくれ。私はもう、コーヒーは飲まないんだ。」 の頭に乗った圧はふわりと離れ、安立がの側から去ろうとした。その先がとても暗い、アンダー・バンク最深部のそのまた奥よりも、もっと光の届かない場所のような気が急にして、 「。」 呼び止めたものの、どう続ければいいのかにも分からなかった。 安立はしばらく待っていたが、の言葉が迷子になったまま出口を見つけられないのを察知して、、と自ら話しかけた。 「君の優しさは、セキトのために取っておきなさい。」 そして少し間を置いて、ありがとう、と言ったような気がした。それは本当に微かな音だったから、あるいはの空耳だったのかもしれない。 結局、使い込まれたマグカップは、の手元に残ったままだった。 次(本章 金木犀のき)→ 目次に戻る |