これが、片方の鍵だよ
ある日、一行は森の中を進んでいた。先頭はカラスミ。モッツァレラとピロシキがそのすぐ側につき従い、しんがりはタンタンメン。はその間にいた。 一行の後についてくる者の存在にいち早く気付いたのは、もちろんタンタンメンだった。禁貨のにおいを嗅ぎつけてやってくるバンカー、単に窃盗を目的として襲ってくる賊、あるいはその両方。たちが子供だから狙われやすいのだろう。よくあることだ。そういう者達に一泡吹かせてやるのが、しんがり二人の役割だった。 タンタンメンがを見た。はうなずいた。尾行者が木立から姿を現そうとした。先手必勝。二人は身構え、 「待て、タンタンメン、。」 攻撃しようとしたまさにその時、カラスミの制止の声がかかった。 突然のカラスミの命を受け、は寸手のところで発火をやめた。タンタンメンは勢い止まらず、なんとか軌道をそらした爪の一撃は木の幹を切り裂いた。深手を負った木はめりめりと悲鳴を上げ、地に倒れ伏した。 梢の中から現れたのは、漆黒の男。帽子も上衣も黒ずくめで、所々に血色のバンカーマークが浮かんでいた。装着している仮面は青白い笑いを浮かべ、本当の表情は全く読めなかったのに、男の視線に一瞬とらえられた時、はなんだかぞっとした。 「カラスミ様の弟、アンチョビ様だ。」 タンタンメンがにささやいた。 漆黒の男はすうっとカラスミに近づいた。 「久しぶりだね、兄さん。」 その時カラスミはわずかに微笑を見せた。それはが初めて見るカラスミの表情だった。 森がざわりと揺れる。 「首尾はどうだ、アンチョビ。」 「まあまあだよ。例のバンカーの件だけど……。」 アンチョビが声を落とし、達四人には二人の会話は聞こえなくなった。 「はアンチョビ様を見るの初めてよね。」 別にその必要はないだろうが、なんとなく声をひそめてモッツァレラが話しかけた。 「皆はもう会ったことあるんだ。」 「そんなに多くはないでしゅけどね……いつもカラスミ様としか話さないし。」 「あまり長居もなさらないしな。アンチョビ様はアンチョビ様で、何か役目を負ってカラスミ様と別行動を取っておられるようだ。」 そんなふうに四人がささやきあっているうちに、カラスミとアンチョビは要件を話し終えたようだ。アンチョビはカラスミにきびすを返すと、もと来た方角へ歩きだした。すれ違い際、アンチョビはをじろりと眺めると、 「ふーん、君が、?」 のっぺりとした甲高い声でつぶやいた。 が答える間もなく、アンチョビは姿を消していた。は自分の心臓が早鐘を打つのを感じていた。 「さあ、先を急ぐぞ。」 カラスミに声をかけられて、は我に返った。他の三人も、多かれ少なかれ戸惑っていたようで、慌てて列を組み直した。 カラスミの表情は、弟に会った時の微笑のかけらもなく、すでにいつものカラスミ様の顔だった。 その夜、は寝付けなかった。の頭から離れない、片方の鍵、片方の鍵。考えれば考えるほどその出所は分からなくなる。の記憶の片鱗などではなく、捏造してしまった言葉のような気さえしてくる。落ち着いてゆっくり思い出そうとしても、カラスミに会う前の記憶――がどこで暮らしていて、何を話し、何を思い、誰と共に過ごしていたのかは、真っ白だった。いや、ひとつだけちらつく影がある。兄だ。が失った記憶の彼方に、そう呼んで慕っていた者の存在がゆらめいていた。兄はの側で、の火を見てくれていた。そして優しく戒めを与えてくれた……ような気がする。 考えてもらちが開かなかった。星でも見ようと思って起き出すと、先客がいた。モッツァレラだった。 「、眠れないの。」 「あら、も。」 「うん……アンチョビ様に声かけられて、まだドキドキしてるのかも。」 冗談めかしてはそう言ったが、モッツァレラはその名を聞いていい顔はしなかった。 「あたし、アンチョビ様ってあんまり得意じゃないのよねえ。」 「何回かは会ってるんでしょ。は今日が初めてだったけど。」 「会ったっていうか、見た、のほうが近いかな。今日は正直びっくりしたもん。に話しかけて。いつもだったらあたし達のことなんて、いいとこチラッと見るだけよ。それでもあの仮面のせいでこっちからはアンチョビ様の表情全然読めないし。」 それはも同感だった。冷たく微笑む白い仮面。もしも氷という名の仮面があるのなら、きっとあれのことだろう。 何より気に食わないのは、とモッツァレラは口を尖らせ続ける。 「アンチョビ様が来ると、カラスミ様がなんかちょっといつもと違う雰囲気になるのよね。」 「それも思った。カラスミ様、なんかちょっと、違ったよね。」 「でしょでしょー。別に何がどう悪いってわけじゃないんだけどさ。なんかちょっと、気になっちゃうのよね。」 はうなずいた。それからぽつり、 「兄弟、だからかな。」 とつぶやいた。モッツァレラは肩をすくめた。 「そんなもんなのかしらねえ。モッツァレラ、よく分かんない。」 彼女の言い方は無関心そのものだった。あるいは無関心を装おうとしていた。モッツァレラには兄弟はおろか、家族さえいなかったからだ。はさっき考えていたことを思い出していた。兄弟――。 「には、お兄ちゃんがいたの。」 モッツァレラはちょっと意外そうな顔をした。がそういうことを言うのは初めてだった。 「思い出したの?」 ううん、気がするだけ、とは首を振る。しかしやっぱり思い直してもう一度首を振り、かすかに覚えてるの……とつぶやいた。 「最近、変な声が聞こえるんだ。」 はモッツァレラに打ち明けた。 「それも、ホワイトキーに関係ありそうな。」 「うそ!? どんな声?」 「『これが片方の鍵だよ』っていう声。誰かがに何かを見せてた記憶なのか、それがホワイトキーなのか、そもそも全くの空耳なのかよく分からないけど。」 モッツァレラはしばらく考えていた。それから、カラスミ様に話した方がいいと思う、とピロシキと同じことを助言した。 はうなずいた。 「明日、カラスミ様に話してみるつもり。」 それは自分への、後押しの言葉でもあった。 翌日、早朝。 カラスミはいつも誰よりも早く起きていた。 半分目覚めているような睡眠で夜を明かしたは、小さくあくびをし、目をごしごしとこすった後、カラスミの側に近付いた。 「おはようございます、カラスミ様。」 カラスミはがこんなにも早く起き出していることに少し驚いたようだったが、すぐに何かあることを察した。 「寝付けなかったのか、。顔色が少し悪い。」 「……はい。実は……」 カラスミに見せてもらったブラックキーがきっかけでの中に思い出された言葉。だが、その言葉が何を意味するのかは分からない。鍵というのがホワイトキーのことなのか、全く関係ないのか、そもそもそれがの記憶なのかどうかすら怪しい。それでも万に一つ、それはホワイトキーの手掛かりかもしれない……。 そんな内容のことをはつっかえつっかえカラスミに話した。ひどく説明しにくいことを寝不足の頭で語るのはにとって大変な労力を要し、決して理解しやすい話にはならなかったのだが、カラスミは口一つはさまず彼女の言葉を聞いていた。 が話し終えた時、カラスミはじっとの顔を見つめていた。そして黙っているものだから、はなんだか急にかあっと熱くなって、すみません、と思わず言葉をこぼした。 「こ、こんな突拍子もない話でカラスミ様の邪魔をしてしまって……今の話は忘れて……」 「三人を起こしてこい、。」 の謝罪を最後まで聞かずして、カラスミは言った。 「すぐに出発するぞ。」 「は、はいっ。」 と一応返事はするものの、は質問せずにはいられない。 「でも……どこへ?」 カラスミは肩越しにを見た。瞬間、はどきりとする。彼の紅い瞳に見据えられて胸が鳴ることはこれが初めてではないのだが――今のカラスミの瞳はどこか不思議な色を、希望と、野心と、そしてかすかな哀れみの色を、浮かべていた。 「ココットという名の町だ。」 カラスミは答えた。 「お前の、生まれ故郷だ。」 の心臓が、さらに大きく脈打った。 To be continued... ←BACK NEXT→ ![]() |