*2*


 水面がやわらかく輝いている。
 は知っている。水に向かってなら、火を出しても大丈夫。火は水面に踊り、その冷気に当てられてすぐに死んでしまうだけだから。
 そしては火を放つ。

 その時、後ろで声がした。




 モッツァレラとピロシキは朝から街に出かけていた。カラスミの命令で、ホワイトキーの情報と食料を入手してくるためだった。
 ホワイトキーとは、カラスミが探し求めている鍵の名だ。ホワイトキーと、それと対をなす鍵――ブラックキーがそろえば禁貨のありかが分かる不思議なゴーグルを手にすることができるという。カラスミが最終的に求めているのはそのゴーグルであり、そしてブラックキーはすでにカラスミの手中にあった。残るは、ホワイトキー。だがそれがどこにあるのか、その情報はほとんど得られていなかった。
 それでも、カラスミの探す物はの探す物。どんなに情報が少ないとしても、ホワイトキーのため(ひいてはカラスミ様のため)、彼女はどんな労力でも惜しまない考えだった――が、今日に与えられた命令はそのホワイトキーを探すことではなく、自己を鍛錬することだった。
 そんなわけでは、同じく自己鍛錬の命令を受けたタンタンメンとともに、街のはずれにある湖のほとりに小さな野営地を作り、モッツァレラたちの帰還を待っていた。

 湖面は静かだった。水鏡に映った空は深く、青く、湖の水と溶け合って沈んでいた。はその沈んだ空を眺めていた。
 本当は湖に向かって火を放つ練習をするつもりだった。いや、ついさっきまで実際に練習していたのだ。だが短時間での度重なる発火と、思ったよりも大きな火を出せない事実に、彼女は少し疲れていた。それでつい、湖の前でたたずんでいたのである。
 雲を突き抜けて魚が一匹はねた。波紋に空が揺れた。
 背後に殺気を感じたのはその時で、はとっさに身をかがめた。直後、の頭があった所を、鈍く輝く青い爪が切り裂いた。
「……。」
「何をぼーっとしている。火を出す練習をするのではなかったのか。」
「分かってるって。こそ、もっと殺気を消す練習しないと不意打ちなんてできないよ。」
 にやっと笑ったに、タンタンメンはフンと答えただけだった。彼はが軽くかわすことを知って攻撃をしたのであり、もまた、タンタンメンがその気になれば簡単に気配を消せることを知っていた。
 タンタンメンは空を切った爪を一振りし、それを長い袖の下に隠した。隠しきれず半分ほどのぞいた爪が、西日になり始めた太陽の光を反射して、一瞬だけきらりと青く光った。
たち、遅いねえ。」
 がつぶやいた。モッツァレラが要らぬ買い物をしているのでなければ良いがな、とタンタンメンは皮肉っぽく笑った。
も行きたかったな、ホワイトキー探し。」
「……オレたちは、オレたちが今成すべきことをするべきだ。は、もっと大きな炎を出せるようにならないとな。」
 うん……とはよどんだ返事をした。そんなことタンタンメンに言われなくても分かっていた。お前はもっと大きな炎を扱えるよう特訓しなければな、と以前カラスミに言われた言葉がよみがえる。
「では手始めに、この湖面を炎で覆い尽くしてみるというのはどうだ?」
 の気持ちを知ってか知らずか、タンタンメンはさらりと言った。は苦笑した。
「それはちょっと無理だよ。」
「無理なものか。だってお前は……。」
 言いかけて、彼はハッと口をつぐんだ。が問うような視線を向けると、彼は彼女から目をそらし、いや……とつぶやいた。
「やればできるものだからな、意外と。とにかく、やってみなければ。」
 それからタンタンメンはに背を向けると、どこかへ去っていった。は彼が何と言おうとして止めたのか少し気になったが、追究するのも野暮だと思ったから、黙って見送った。彼にも、彼が今成すべきことがあるのだろう。にも――。
 は再び湖を見つめた。しかし今彼女が見つめているのはそこに沈んだ空ではなく、炎を受け止める力を持つ水の集合としてのそれだった。
 やればできる、か。
 は神経を集中させた。
 水面がやわらかく輝いている。
 は知っている。水に向かってなら、火を出しても大丈夫。火は水面に踊り、その冷気に当てられてすぐに死んでしまうだけだから。
 そしては火を放つ。
 ごうっと熱風が巻き起こり、巨大な炎が水の中に飛び込んだ。火の死ぬ音と共に白い蒸気が噴き出し、幾片かの炎が死にきれず湖面を走る。
 その時、後ろで声がした。

 きれいな火だね。

 振り返ると、カラスミがいた。カラスミは越しに、湖面に揺らぐ蒸気が消えていくのを眺めていた。
「カラスミ様……。」
 はおずおずと開口する。
「今、何と?」
「聞こえなかったか。未熟な火だなと言ったのだ。」
 やはり空耳だったか。
 申し訳ありません、とはつぶやいた。カラスミはそれには答えず、歩き出した。
「モッツァレラとピロシキが戻った。向こうで報告を聞くから、来い。」
 そう言ってカラスミは野営地の方へ向かった。は、はいと返事をしたものの、しばらく黙ってカラスミの背を見つめていた。
 あれは、何だったのだろう。以前にも同じ光景を見たことがあるような錯覚は。の火をきれいだと言った、あれは誰の声だ?
 答えは見つからなかった。少なくとも、の中には。
 は短くため息をつくと、カラスミの後を追いかけた。

 モッツァレラたちが持ち帰ったのは食料だけで、ホワイトキーの情報と呼べそうな情報はほとんどなかった。だが、カラスミは特に苛立つ様子も見せず、一応街での行動を逐一報告しているピロシキの話を淡々と聞いていた。
「――そうか。ご苦労だったな、ピロシキ、モッツァレラ。」
「お役に立てず申し訳ないでしゅ、カラスミ様……。」
 カラスミは答えなかった。怒っているふうでも、失望しているふうでもなく、彼はただ無言だった。ピロシキと行動を共にしていたモッツァレラも、さすがにいたたまらなかったのか、ため息をつくとつぶやいた。
「せめて、どんな鍵か分かってればいいのに。このままじゃ探しようが……。」
「ふむ。だがホワイトキーはブラックキーと対をなす鍵のはず。おそらくはブラックキーと対称的な、あるいは類似した形状だろう。お前たちも今一度これをよく見ておくがいい。」
 言ってカラスミはブラックキーを取りだすと、四人にそれを差し出して見せた。カラスミの手の中で、ブラックキーが黒々ときらめく。

 これが、片方の鍵だよ。

 瞬間、はドキリとした。また空耳だ。の中から聞こえた声だ。それはまるで、投げ込まれた小石が心の奥底で波紋を作り、その波紋がつむいだ音のようだった。それが誰の声なのか、には分からなかった。先の空耳と同じ声なのか違う声なのかさえも分からなかった。ただ少なくともそれは、の知る声ではなかった。
「……もっとも、対になっていない可能性も無きにしもあらずだ。ホワイトキーを探す時は下手な先入観を捨て、あらゆる情報を拾え。よいな。……よいな、?」
「……あ。は、はい。」
 カラスミはブラックキーをしまいながら、少しけげんな顔をし、どうしたと問うた。
「何でもありません。」
 ピロシキたち三人も心配そうに、あるいは不思議そうにを見ていたが、その時はそれ以上誰も何も尋ねなかった。
 カラスミが、今夜はここで一泊し、明日の早朝次の土地へ出発する旨を告げた。
「じゃあ僕、水をくんでくるでしゅ。」
 真っ先にピロシキが立ち上がった。
も一緒に行こ。」
「えっ……うん。」
 不意に指名されたが返事をした時にはもう、ピロシキは桶を手にしていた。水くみは日が沈む前に終えてしまった方がいい。は急いでピロシキの後を追った。
「今日は元気がないでしゅね。」
 が追いつくのを待ち、しばらく二人で並んで歩いた後、ピロシキはそう言った。
「そうかな? いつも通りだよ。」
「修業は上手くいったんでしゅか。」
「うーん、まあまあかな!」
 ちょっと自信を水増しして言ってみる。するとピロシキはじっとの目を見た。ピロシキはよりもずっと背が高いので、はピロシキをほとんど見上げる形になる。いつもなら特に何も思わないのに、その時やけに見下ろされている気がしたのは、やはりずっと一緒にいるピロシキにとっての虚栄はお見通しだったか。
 再びピロシキが開口したのは、湖に着き、が水をくみ始めた時だった。
、何か思い出したんでしゅか。」
 が記憶を失っていることは周知だった。
 はゆるゆると頭を振った。
「何も。ただ、時々変な声が聞こえるんだけど。」
「変な声?」
「そう。誰の声か分からない、知らない人の声。さっきカラスミ様がブラックキーを見せてくれた時、『これが片方の鍵だよ』って、そう聞こえた。」
「片方の鍵? ホワイトキーのことでしゅか!?」
「分からない。いつ誰に何故それを言われたのか、全然覚えてない。ましてホワイトキーの事かどうかだなんて……。そもそもそれがの記憶の中の声なのかも分からない。ただの空耳かもしれないし。」
 言っていて、なんだか自分でも悲しく情けなくなってきた。ホワイトキーと口走って高揚したピロシキもの様子をすぐに察し、そうでしゅよね、といつもの優しい穏やかな口調で言った。
 少しの間、二人は黙って水をくむ時を取った。その後ピロシキが、僕ねと口を開いた。
「花を咲かせられるんでしゅよ。」
 見ててね、と彼は右手の平を地面に置いた。かすかな光が大地に集まったように見え、彼がそっと手をどけると、小さな芽が頭をもたげていた。の見ている前でそれはぐんぐん大きくなり、つぼみをつけ、やがて可愛らしくはじけて一輪の白い花が咲いた。
「すごい!」
 ピロシキは、何の役にも立たないけどね、と照れ笑いした。気落ちしてしまったが取り戻したその笑みが偽りのものであるとするならば、彼の言葉は正しかった。
 四つ持ってきた水桶の、一つはが、残りはピロシキが手に持った。それでも彼は平気な顔で、と並んで歩いていた。
、さっきの話なんだけど。」
 道々、ピロシキが切りだした。は顔を上げる。
の記憶のかけらかもしれない『片方の鍵』のこと、一応カラスミ様に話しておいた方がいいと、僕は思いましゅ。」
 それはとっさにはうなずけない提案だった。話すのはいいが、その後何になるというのだろう。結局は何も覚えていないわけだし、「片方の鍵」が何のことなのかも分からない。ホワイトキーとは全然関係ない可能性の方が高い。自分のそんな妄言でカラスミの貴重な時間と労力を奪うのは嫌だった。それに、自分の過去を引きずり出すのが少し、怖くもあった。
 だが、ピロシキがそう意見する気持ちも分からなくはない。共にカラスミに忠誠を誓った身だからこそ。
 は、うん……と返事をした。





To be continued...

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