* 百 *


 台風が接近していた。予報では、今夜ジョウト地方に最も近づくらしい。大切に育ててきたモモン林が台無しになっては大変と、祖父は今日の午前いっぱいまで使ってモモンの収穫を終えていた。今、アユの家はモモンの甘い香りであふれている。自家用に余ったモモンが山盛りあるのでお母さんが大量のジャムを作ったのだった。
 お母さんはまだ温かいジャムのびんを数本と、たくさん余っているモモンの実をいくつか紙袋に入れていた。

「ご近所にもおすそ分けしようと思って。」
「じゃあ私、ぱっと行って配ってくるよ。まだ雨降ってないし。」
「そう? 助かるわ。じゃあお願い。早く帰ってくるのよ。台風来てるから。」
「はーい。」

 ジャージのトレパンにTシャツという適当な格好のまま髪だけきゅっと一束にくくって、アユが家を出たのが夕方。隣近所、といっても片田舎のことだから畑を二つ三つ越えたところに隣家があることもあり、おすそ分けを終えた頃には辺りはすっかり薄暗くなっていた。雲行きもかなり怪しい。いつもはオタチがじゃれ遊んだり、バタフリーがひらひら飛んだりしている田んぼのあぜ道も、今日ばかりはしんと息を潜め嵐に備えていた。

「早く帰ろうっと。」

 アユが足を速めたその時だった。
 道の先に何かがいるのをアユは見つけた。四足の生き物だ。ポケモン? 細長い足にしゅっとした体つきをしていて、最初はオドシシの子供かと思った。しかしオドシシならば茶色いはずだ。そのポケモンは頭から背中にかけて、太陽に向かってぐんぐん伸びる真夏の木々の葉っぱのような、濃い緑色をしている。顔とお腹の方は白っぽい。オドシシの色じゃない。しかも頭には黄色い花のようなものまで付いている。
 アユはハッと思い当たった。あれは確か、シキジカという名前のポケモンだ。この辺りでは見慣れないポケモン。密輸されたイッシュのポケモン!
 シキジカはアユに驚いたのだろうか、ばっと身をひるがえすと、山道に逃げこんだ。アユは見失うまいとして追いかける。シキジカが木々の向こうからアユを振り返っていた。
 ここはご近所のシゲさんの山だ。そういえばおじいちゃん、シゲさんの山にもオドシシ用の罠を仕掛けたって言ってたっけ。

「その先に行っちゃだめ! 罠があるよ!」

 しかしシキジカはぴょんと奥の方に跳ねて行ってしまった。あちゃー、と顔をしかめるアユ。大声で逆に怖がらせてしまったらしい。どうしよう、どうしよう。

「あ……そうだ、ハジメさん!」

 アユは急いでポケットからスマートフォンを取り出すと、ポケモンレンジャーのハジメに電話をかけた。コール音が一回、三回……十回鳴っても応答がない。
 一分ぐらい鳴らし続けた後、もう、とアユは電話を切った。それから梢の向こうに目をやる。
 この山には罠が仕掛けられているうえ、今夜は台風だ。シキジカを放っておくわけにはいかない。見知らぬ土地できっと怖い思いをしているだろうから。
 ずん、と山道を進み始めたアユの優しさが、この時ばかりは裏目に出た。

 シキジカにはすぐに追いついた。木々の入り組む獣道で、不安そうに辺りを見回し、ゆっくり歩いている。全体的に薄汚れた感じがして、疲れているようだった。アユは静かに近づくと、その名を呼んだ。

「シキジカ。」

 シキジカが耳をぴくりとこちらに動かし、アユに顔を向けた。先ほどのように逃げることはなかったが、じっとアユの様子をうかがっていた。
 きっとこういう時ポケモンレンジャーなら、あのキャプチャなんとかを使って気持ちを伝えることができるんだろうなと思ったが、アユはレンジャーではないし、ハジメへの連絡もつながらなかったのでどうしようもない。できるだけシキジカを怖がらせないよう、アユは精一杯優しく穏やかに「シキジカ」と再び呼びかけた。

「大丈夫だよ。こっちにおいで。」

 アユが差し伸べた手のひらをシキジカが見つめている。少し考えるような時間の末、シキジカはキュルと小さく鳴くとアユに一歩近づいた。アユはポケモンレンジャーではないが、声音に込めた思いをポケモンに伝えることができた!
 とアユが喜んだのも束の間。突然シキジカの足元が崩れ、小さな緑色の体が地面に引きずりこまれた。

「シキジカ!」

 考える前に体が動いていた。アユはシキジカに駆け寄り、落ちる体をつかまえようと手を伸ばす。が、そのアユを支える地面までもがぐらりと形を失った。悲鳴を上げる間もなかった。伸ばした手の先のシキジカが降り注ぐ土砂で見えなくなり、アユの首筋にも湿った冷たい土がなだれこみ、あっと思った時には激しく地面にたたきつけられていた。

「あ、いててて……。」

 発した声に、ざり、と土と腐った枯葉の味が混ざる。うえっと眉根を寄せてせきこみながら口の中のものを吐き出した後、アユは上半身を起こし慌てて辺りを見回した。

「シキジカ! シキジカ!」

 シキジカはアユから少し離れた所に倒れていた。アユは立ち上がるのももどかしく、ほとんど這うようにしてシキジカに飛び寄る。シキジカがうっすらと目を開けて弱々しく鳴いた。首をもたげ、足を曲げて起き上がろうとするが、力が入らずにまた倒れてしまった。

「足けがしたの!? 見せて……」

 シキジカの体に両手を回そうとした時だ。アユは自分の体の異変に気がついた。右手が動かない。ぞくっとした汗が背骨に沿って流れた。こわごわと自分の右手に目をやると、手首の形が明らかにおかしい。右手が上にずれているような見た目になっていて、力が全く入らない。
 あ、これ、骨、折れてる。
 認めた瞬間に信じられないほどの激痛が走った。痛み以外の思考が吹き飛び、アユは右手をかばうようにしてうずくまった。

「い、痛い! 痛いいいいぃぃ!!! うぅあああぁぁっ!!!」

 経験したことのない痛みに、アユはパニックに陥った。何これ痛い、なんで、どうして、痛い、助けて、助けて痛い、死んじゃうたすけて痛いいたいイタイ! 涙と震えが止まらない。言葉とうめきの混濁した声が唾液と共に地面にぼたぼた落ち、世界がぐるぐると回り始め、いっそ死ねばこの苦しみから解放されると黒い何かのささやきを聞いた気がした時、

「キュル……。」

 シキジカの舌が、アユのほおをなでた。
 はっとして顔を上げると、シキジカが自由の利かない体を引きずってアユに寄り添い、心配そうにこちらを見つめていた。

「シ、シキジカ……。」

 右手はまだ死ぬほど痛かった。しかしその名を口にしたとたん、シキジカの体がアユに触れていることに気がついた瞬間、痛いという感覚だけで砂嵐のように覆われていた頭の中が、すうっと晴れていくような心地がした。

「ありがとうシキジカ。大丈夫だよ……一緒に帰ろう。」

 アユは左手でぐしぐし涙をぬぐい、痛みをこらえて今自分たちが置かれている状況を観察した。
 アユたちはどうやら元いた場所から二、三メートルほど下に落ちたようだ。崩れた崖はほとんど垂直で土はやわく、負傷した自分たちの体ではよじ登れそうにない。

「おおーい! 誰かー! 誰か助けてー! シゲさーん! おじいちゃあーん!」

 声が裏返るのにも構わず叫んでみるも、ここは獣道も外れた山の中。答えるのは強い風にざわざわ揺れる葉擦れの音だけだ。生い茂る木々とやぶで人家の屋根すら見えず、自分がどこにいるかもよく分からない。シゲさんの山のそんなに奥深くまでは行ってないと思うのだけど、偶然の救助を期待できる場所とは言いがたかった。

「そうだ、スマホで家に連絡……」

 ポケットに手をやって、どきりと嫌な汗が背中を伝うこと本日二回目。スマートフォンがない。
 きっと落ちた衝撃でその辺に転がったのだろうと、近くの地面を見渡すがそれらしい物はない。土砂に埋もれたかと、痛む右手をかばいながら何か所か掘り探ってみたが、見つからない。ということは、崖の上で落としてしまったのか……。
 シキジカに大丈夫と言ってみせた強がりが、早くもしゅるしゅるとしぼんでしまった。右手は相変わらず内側からハンマーでたたかれているかのように痛い。

(やばい、これ、詰んでるんじゃないの。)

 凍りつくアユの顔にぽとりとしずくが落ちた。雨だ。見上げた木々の隙間から、どんより低く垂れこめた暗い灰色の雲と、慌てて巣に帰っていくのだろう鳥ポケモンの影が一つ見えた。いよいよ台風の暴風雨域に入ったか。泣きっ面にスピアーとはこのことだ。

(とにかく雨を避けないと……。)

 向こうの方に大きな木が一本見えた。葉っぱもよく繁っているし、あの下に入ればここよりはいくらかましだろう。

「シキジカ、動ける? あの木の下で雨宿りしよう。」

 シキジカは弱々しくもなんとか立ち上がった。ということは、足は折れていない。アユは少しほっとして、自分の体でシキジカを支えてやりながらゆっくり移動した。シキジカもまた、左手で右手を保持し痛みをこらえているアユを、気遣い支えてくれているような気がした。
 風雨に耐え、寄り添いながらやっと大木に到着した二人に、運が味方した。幹が腐り落ちたのか根が複雑に絡みあっているのか、大木の根本にちょうど一人と一匹が入れるくらいのうろがあったのだ。
 アユはシキジカと共にうろにもぐりこむと、腰を下ろして大きくため息をついた。とりあえずこれで雨と風はしのげそうだ。暗がりの中で小さな虫がうごめいた気がするのは見なかったふりをする。そんなことよりも問題は二人のけがの具合だ。
 シキジカはけがの程度こそひどくないものの、きっと密輸業者から逃げだして以来さ迷い続けていたのだろう、かなり体力を消耗していた。アユの側にぴっとりうずくまり、少し震えている。そっと頭をなでてやると、キュルと鳴いた。
 アユのほうも深刻だ。いびつな形になった右手首は、目に見えて分かるほど腫れてきた。痛みもじんじん増すばかり。また涙が出そうになったが、いったん泣いてしまうと止まらなさそうだったから、必死で我慢した。
 ここまで移動する途中、太い木の枝を拾っておいたから、アユはそれを添え木にして手首を固定しようとした。髪をほどいてヘアゴムを用い、痛みにうめきながらもなんとか木の枝を腕に結び付ける。が、一か所結んだだけでは十分に安定しなかった。他に使えそうな物は何も持っていない。ジャムを配ったらすぐ家に帰るつもりだったので、スマートフォン以外完全に手ぶらだったのだ。タオルの一本でも首に引っかけてくればよかったと思いつつ、うろに生えている下草とか腐った木の根らしきものとかをつまみ上げて固定を試みたが、すぐにあきらめて手を離す。

「キュルル。」

 そんなアユの様子をしばらく見ていたシキジカが、不意に鳴き声を上げた。なんだろう? と思っていると、シキジカの頭の花からぽぽぽと光の粒が飛び出し、うろの隅っこに着地した。粒は見る間に発芽してほのかに光る茎を伸ばし、うろの天井まで育った辺りで成長を止め、光も消えた。
 シキジカはその植物をくわえてちぎると、アユに差し出した。何かを結ぶにはちょうどよい具合の、細長く丈夫な茎だった。

「えっ、これ……私のために?」

 キュルキュルとシキジカが答え、アユは感激にありがとうと声を震わせながらそれを受けとった。そしてシキジカにかなり手伝ってもらいながらも、なんとか骨折部位の固定に成功する。これで右手はだいぶ楽になった。
 うろのすぐ外では雨風がびゅーびゅー吹き荒れていた。辺りはもうすっかり暗くなっており、寒い。ここに来るまでに濡れた体が冷えてしまったようだ。
 吹きこんでくる嵐によってさらに体力が奪われてしまうのを防ぐため、アユはシキジカを抱えこみ、できるだけ互いの肌をくっつけた。するとどちらともなく体の奥でぐるぐるきゅうと音が響く。胃や腸が「からっぽだよ」と悲しげに訴える声だった。

「うう……お腹空いたねえ、シキジカ。」
「キュウ……。」

 このまま誰も助けに来なければ、アユとシキジカは死んでしまうのだろうか。痛みと寒さと空腹と恐怖で、頭が回らなくなってきた。
 もしも、とアユはぼんやり思う。
 もしもアユがポケモントレーナーだったなら、ポケモンの力を借りてこの状況をなんとかできたかもしれない。ポケモンを治す薬でシキジカを助けてあげられたかもしれない。
 そうでなくても、せめて早く進路を決めて、例えばポケモン看護の勉強でも始めていれば、シキジカの体力を回復させるにはどうすればいいか知っていたのかもしれない。けれどもアユが持っている知識といえば、どの進路も選べるように保険を掛けた中途半端な教科書知識ばっかり。人とポケモンの役に立ちたいと夢見て勉強していたはずだったのに、結局そんなのは口先だけで、何一つ意味がなかった。何の役にも立たなかった。
 骨折の痛みは耐えられても、現実がナイフのようにえぐる心の痛みは耐えようがなかった。情けなくて、心細くて、悔しくて、痛くて、アユの腫れた手首にぽとんと涙のしずくが落ちる。それが堰を切ってしまって、アユはまたしくしく泣きだした。
 シキジカが慰めるように、涙の伝うアユのほおをぺろりとなめてくれた。アユはシキジカをぎゅうっと抱きしめた。温かい。この体温に触れていれば、少しは心が落ち着くような気がした。

(ああ、私はシキジカを助けようと思ったのに、結局シキジカに助けられてばっかりだ。)

 シキジカの頭の花に顔をうずめて、アユは目を閉じる。
 そのままいつしか、溶けるように意識を失った。



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