* 百百百百百百百百百百百百百百百百 *


 雨上がりに虹が輝く青空の下、大きな黄色いきのみが今にも落ちそうなほどよく熟れて、いくつも木にぶら下がっている。きのみが落ちた瞬間、その景色は終わる。そのまま目が覚めることもあれば、また次の虹ときのみの景色に移ることもある。
 夏休みの最初に出会って以来、何度も現れるアユの夢。それはいつもきのみが落ちる直前の景色。どんな雨が降っていたのかも、落ちたきのみがどうなるのかも分からない、永遠の風景。
 ここにいればアユは、どこにも行かなくていい気がした。この前後の物語をぼんやりと考えていればよかった。雨は長く降り続く時雨だったかもしれないし、暑い夏の激しい通り雨だったかもしれない。きのみは誰かの口に運ばれるかもしれないし、落ちたその場所で芽を出して新しい生命が始まるのかもしれない。
 今、一匹のゴマゾウが草原に顔を出した。ゴマゾウはからんと晴れた空と大きな虹の橋を見上げながら進み、きのみのなる木に近づいた。これは美味しそうだと思ったのか、鼻を伸ばしてくんくん匂いをかいでいる。あの位置にいてはきのみが落ちた時、頭に当たってしまうだろう。無事に避けられるかな? それともきのみがぶつかって泣いてしまうかな? その泣き声を聞きつけて、お母さんドンファンが来るかもしれない。
 ここにいればアユは、ただ目の前の美しい光景から広がる可能性に、ふけっていればよかった。どの大学を受験するのかも、あるいはポケモントレーナーになるのかも考えなくてよかった。
 ゴマゾウの頭の真上で、きのみが枝から離れる。
 あ、落ちる――。
 そこで景色は消え、真っ暗になる。
 その時アユは、遠くに声を聞いた気がした。

『見つからなぁい。見つからなぁい。君の夢はどこ?』

 ……私の夢、どこにあるんだろう?




 アユがひどく衝撃を受けた出来事は、夏休みも後半に差しかかった頃に訪れた。それは言葉で表してしまえば何のことはない、ごく普通の現象で、それでもアユにとっては意味の深い、忘れがたいものだった。
 ポッポがピジョンに進化したのだ。
 よく晴れた日の午後だった。アユは祖父の農作業の手伝いを終え、一足先に自宅に向かって道を歩いていた。
 道端に数羽のピジョンの群れがいた。ふっくら丸いおまんじゅうみたいになって土の上に座ったり、赤色に目立つ冠羽をきらきらさせながら日光を浴びたりしてくつろいでいるその群れが、ポポの仲間だということはすぐに分かった。いつも顔を合わせていたから。だからアユは何気なくポポの――ポッポの姿を探して名前を呼んだのだ。

「ポポ。」

 アユの声に、一羽のピジョンが素早く顔を上げ、こちらを向いた。
 最初は信じられなかった。信じたくなかったのかもしれない。
 けれどもポポと呼ばれて反応したそのピジョンの表情は、ポケモンの言葉を知らない人間にだってはっきり分かるくらいに、一つの感情をあらわにしていた。「大好きな声が聞こえた」「うれしい」と。ポポ以外のポケモンには、浮かべようもない表情を。
 それでアユは、ポポがピジョンに進化したことを悟った。
 あのピジョンは、ポポだ。
 ポポは一直線にアユの方に飛んできた。ばさりと広げた翼は思った以上に大きく成長していて、アユはとっさに身を引いた。そのわずかな身じろぎを察知したのだろう。ポポは飛行速度を急激に落とすと、アユから一歩離れた場所に着地した。
 ついこの間まで両手で抱えられるぐらいだったのに、もう小さな子供くらいの大きさになっていた。ぐっとそらさなければアユの顔を見上げられなかった首を、今は少し上に向けるだけでアユと目線が合う。鋭い目つきだった。「ポポ」とおそるおそる呼んだアユの声に答えたのは、ぽぽぽと泡のはじけるような可愛らしい音ではなく、ぴいっと甲高い猛禽のそれだった。
 それはいずれも、ポポが仲間と同じようにちゃんと進化することを選べた証だった。それなのにアユは、すぐ側にいるポポがなんだかとても遠い場所にいるような気がして、いつものように手を差し伸べることができなかった。
 ポポがもう一度ぴいっと鳴き、首をかしげる。
 すると群れの方から同じ鳴き声が聞こえたので、ポポはそちらに顔を向けると、再び翼を広げて戻っていった。
 進化おめでとうと口にすることもできなかった。アユは一人取り残されたまま、たくましい姿になったピジョンたちの背中を見つめていた。



 家に帰ると、ちょうどアユ宛に電話がかかってきていた。担任の先生だった。アユはお母さんから受話器を受けとり電話口に出る。もしもしお久しぶり、元気にしてる? と聞きなじんだ中年女性の声が、機械を通した少しのっぺりとした調子で問いかけた。はい元気です、とアユは答えた。

「そう、それはよかった。あのね、進路希望のことなんだけど、どうかなと思って。」

 先生はアユが無事に自分の気持ちを決められたかどうか心配して連絡をくれたのだった。わざわざ申し訳ないという気持ちと、まだ猶予期間内なんだからほっといてほしいという嫌悪をぐちゃぐちゃの糸玉に丸めて飲みくだし、アユは「まあ……」と中途半端な返事をした。
 それがあまり前向きな返事ではないと、先生には伝わっただろう。電話の向こうで先生は小さくため息をついた後、もしよかったらね、と努めて明るく言った。

「今、アサギの市立美術館と自然史博物館で特別展示がやっていてね。イッシュの現代アート展と、化石ポケモン博。どちらもあなたの好きそうな内容だから、行ってみたらどうかしら。何か参考になるかもしれないから。」
「はい、ありがとうございます。調べてみます。」
「あまり思いつめすぎないようにね。時には勢いで選んじゃうことも必要よ。先生、なんでも相談に乗るから。」
「はい、ありがとうございます。すみません、わざわざ。」
「気にしないで。じゃあ残りの夏休みも、体調に気をつけてね。」
「はい。」

 ガチャリと受話器の置かれる音がして電話は切れた。アユも静かに受話器を電話の上に重ねた。
 決断までに残された時間はあとわずかだった。大学を受験するのか、するとしたらどこを受けるのか、大学に行って何がしたいのか。人とポケモンの役に立つために。ポケモンドクターになる? ロースクールで法律を学ぶ? ポケモントリマー、ポケモングッズメーカーの研究員、それともここでいっそポケモントレーナー? どの夢だって素晴らしい。けれどもいずれは、どれか一つを選ばなければならないのだ。
 アユも、進化しなければいけないのだ。



 その日の夜、アユは布団にもぐってまぶたを閉じ、黒い空間の中でまどろんでいた。
 今夜もあの夢を見られるといいなと思った。今日は一日中なんとなく重い気持ちで過ごしていた。あのきれいな風景を見て空想に思いを馳せられれば少しは慰めになるだろう。雨はどんなふうに降っていたのか、そこに誰がいるのか、そしてきのみが落ちた後に何が起こるのか。うたかたの物語に浸る時を、ひとりぼっちの闇の中で心待ちにしていた時である。

『君の夢を見つけたよ。』

 声が聞こえた。
 男とも女とも判別できない、ふわふわと幾重にも反響する高い声だった。
 どこから聞こえてくるのだろう。辺りは真っ暗だ。誰もいない。アユがひっそりと耳をそばだてていると、もう一度「君の夢を見つけたよ」とその声は繰り返した。

『雨がどんなふうに降っていたのかも、きのみがどこに落ちるのかも、やっと分かるよ。君の夢を見つけたよ。』

 あの景色の話をしていると気がついて、アユはどきりとした。雨がどんなふうに降っていたのかも、きのみがどこに落ちるのかも分かるだって? とんでもない! アユはそれが決まっていないからこそ、見るたびに違う景色だからこそ心惹かれているというのに。

 嫌!

 アユは誰に向かうともなく叫んでいた。
 黒い世界に、悲鳴のようなアユの声の残響だけがめぐっていく。

 きのみが落ちた先なんて知らなくていい。どんな雨だったかも知らなくていい。だって知らなければずっと空想していられるもの。知らなければ可能性はどこまでだって広がるんだもの。私から可能性を奪わないで!!

 アユの剣幕に押されたのか、そもそもアユの声はこの空間に響いていないのだろうか。いずれにせよ、不思議な声は聞こえなくなった。アユは今自分がどこにいるのか、あの景色を見たいのか見たくないのか、夢とは一体何なのか、もう何もかも分からなくなって、こんがらがった気持ちのまま、逃げるように眠りの深みに落ちていった。



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