本章

試合前の身だしなみ





 大事な試合の前夜。
 のタッグパートナー、セキトはアンダー・バンクに設置された仮設のリングで、クレジット・ローンウルフを身にまとい、一人でバトルの練習をしていた。あるいは明日を控え、体を動かしていなければ落ち着かなかったのかもしれない。
「あんまり無理すると明日に障るよ。」
 リングの外から声をかけると、セキトはの存在にやっと気がついたらしく、かとつぶやいた。そしてそのまま素直に訓練を中断し、ふうとひとつ大きく息をついての側に来た。
 お疲れ様と声をかけると、ああとセキトは応える。
「明日、ちゃんとの隣に立てるように技の練習をしていた……。これで少しはお前に恥ずかしくないだろうか。」
 セキトはリングの端に腰かけると、と同じ目線の高さでそう言った。その赤い瞳の中には少しの不安と達成感、そしてと共に戦いたいと強く願う光が見えた。
 は、うんとうなずく。
 セキトはずいぶん長く練習を続けていたようだ。その証拠に、ヒーロー着には汚れのようなノイズデータが付き、クレジット・ローンウルフの特徴的な後ろ髪は、いつもよりやたらはねて絡まっていた。
「ねえ。たてがみ、といてあげようか。」
 ふと思い付いてが言う。
「は?」
「明日は特別な試合だから、ね?」
 分からないままのセキトに後ろを向かせ、は携帯ブラシを取り出した。
 ぶわりと長く垂れ下がったたてがみの、先っぽを持ち上げて小刻みに櫛の歯を入れていく。と、毛束がするりとの手から逃げた。セキトがどうなっているのか気になってこちらを振り返って見ていた。
「だめ。前向いててよ。」
 セキトは慌てて言われた通りにし、たてがみがまたの手元に戻ってきた。は優しい手付きでその毛流れを整える。
 クレジット・ローンウルフのたてがみは人の髪の毛とは違う。薄い茶色と灰色が入り交じった硬い獣の毛のようだ。いや厳密にはそれともまた違う。このたてがみには獣の臭いがない。猛々しく大地を駆ける野生の狼と、無味で乾いた作り物との間にある、ヒーロー着用の精巧な修飾データだった。
「……なあ。これには意味があるのか?」
 ブラシがうなじの辺りまで進んだ頃、セキトが前を向いたまま尋ねた。
「意味?」
「たてがみをとかしておくと、有利に戦えるのか。必殺技の威力が上がるとか。」
「いや特に何もないけど。」
 がくっとセキトが肩を落とし、じゃあこんなことしなくていいだろと急に振り返った。がわっと驚いたのと、櫛先がセキトの頬に刺さったのはほぼ同時だった。
「いっ、てぇ……!」
「ご、ごめん! 大丈夫? 急にこっち向くから……。」
 セキトは頬に手を当てたまま再びに背を向け、大丈夫だ、と低くうなったきり黙りこんでしまった。ブラシを持つの手を伝った感触では、たぶん手当てが必要な程ではないが、痛みをこらえる時間が生じるほどには深く刺さってしまっただろう。申し訳ないとは思いつつも謝る以上はどうにも出来ず、セキトも怒っている様子はなくじっとしたままだったので、はブラッシングを再開した。
 ごわごわと乱れあちこちに跳ねていたたてがみは、のブラシが通るたび少しずつ滑らかに素直になっていく。絡み付いたノイズデータも少しは取り除けているようだ。ブラシの通ったあとを手櫛で追いかけると、人肌ではない冷たさと、外気ではない温もりが、なめるようにの指の間を抜け落ちていった。
「なあ……。」
 しばらくして再びセキトが口を開く。
「意味がないのに、はどうしてこんなことするんだ。」
「うーん、どうしてって。」
 は少し考え、
「大事な試合、ぼさぼさのままじゃカッコ悪いでしょ。それなりに思い入れのある所には、それなりの身だしなみで行くのが、自分と相手に対する礼儀ってこと。」
 そう答えると、セキトは櫛が刺さらないよう、そうっとわずかに後ろを向いて、目線だけをに寄越した。
「そういうもんなのか?」
「そういうもんなの。」
 セキトは納得したような、しないような、微妙な表情をしてまた前を向いた。それからまたしばらく黙ってにたてがみを委ねていたが、ややあって、なあ、と話しかけた。
「明日は……よろしく頼む。」
 は少し手を止めて微笑む。
「うん! よろしくね。」



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