*終*


 水面がやわらかく輝いている。
 は知っている。水に向かってなら、火を出しても大丈夫。火は水面に踊り、その冷気に当てられてすぐに死んでしまうだけだから。
 そしては火を放つ。
 ごうっと熱風が巻き起こり、巨大な炎が水の中に飛び込んだ。火の死ぬ音と共に白い蒸気が噴き出し、幾片かの炎が死にきれず湖面を走る。
 その時、後ろで声がした。

 未熟な火だな。




……! !」
 が目を開けると、若い男が泣きながらの名を呼び続けていた。ヴァンだった。
……ああ、!」
 は地面に寝かされていた。虚ろに見つめ返したヴァンの背景にある空は黒く、月も星もない。は、夜よりも暗い場所にいた。
 ぽつぽつと冷たいしぶきが手足に触れるのを感じた。雨が降っていた。
 遠くで喧騒が聞こえる。怒鳴り声で誰かが命令している。それに混ざって時々響くのは、生木が燃えて弾ける甲高い音。炎が何もかも食いつくしてしまう音。のよく知っている音。
 野営地で火を焚くとき、良いたきぎが十分量見つからなければ、ピロシキが木を一本なぎ倒し、タンタンメンがそれを扱いやすい大きさに切り割ってくれた。モッツァレラはたきぎを組み立てると、火つけて! とを呼び、がそれに応じてたき火を完成させた。その営みを、カラスミは側で黙って見守っていた。光を受けて闇よりも黒くなった夜の中、パチパチと甲高い音を出しながら燃えて弾ける生木を見つめるカラスミの瞳に、一瞬真紅の閃きが見えた気がした。
「カラスミ様!!」
 は叫び、ばっと起き上がった。があんと槌で殴られたような痛みを全身に感じながら、視界に入ってきたのは、燃え盛る林。アバターを追って入ったはずの林だった。林の周辺には必死に消火を続ける人の姿が見えた。さっき聞こえた怒声は、彼らのものだ。
 はあの林の中で気を失ったはずだったが、いつの間にか外にいて、アバターもカラスミも姿がなく、何故かヴァンに介抱されているのだった。
「カラスミ様……。」
 の脳裏に、を置いて去るカラスミの後ろ姿が浮かぶ。許しを乞うの願いをためらいなく切り裂いて、カラスミは行ってしまった。の呼びかけに応える人はもう、いないのだ。
 は力なくその場に崩れ落ちた。ヴァンが慌ててその肩を支え、なんとか地面に座らせた。はたぶん、うわごとのようにカラスミの名をつぶやいていたのだろう。
「僕がここに来た時には、誰もいなかったよ。」
 見かねたヴァンがささやいた。
 雨ではない、幾粒かの水が頬を伝い落ちるのを、はぼんやりと感じていた。



 あれから数日が経った。
 林はほぼ全て燃えてしまったが、消防団の尽力によって延焼は食い止められ、火事による死傷者は出なかった。そう、死傷者は見つからなかったのだ。林の中には、誰もいなかった。
 その後ヴァンの家に住み込むことになったは、傷もまだ十分に癒えぬうちに、町の宿屋へ向かった。案の定、カラスミも他の三人もいなかった。台帳を確認してもらうと、林が燃えた翌日にカラスミたち五名は出立したことになっていた。
「奇妙な客だったよ。朝になると部屋は空っぽで、五人分の宿泊代が机の上に置いてあった。まあ金を払ってもらえればこっちとしては文句ないんだけど……そういえば君、あの五人の中に……?」
 は話を最後まで聞かずして立ち去った。
 教会にも行ってみた。商店街を歩き回ってもみた。だが、もちろん、カラスミたちの姿はどこにもなかった。
 カラスミたちと共に禁貨ゴーグルの行方を求めて放浪と戦闘を繰り返していたの日々は、一変、一日の終わりには待ち人のいる家に帰る平和で穏やかな日常となった。それは、独りで享受するにはあまりにも虚しい安寧だった。
 変化したことがもう一つあった。あの日を境に、は炎を出せなくなったのだ。完全に能力がなくなったわけではないが、今までの二倍も三倍も集中して、ようやく小さな火がぽっと灯るか灯らないかという具合だった。
 その変化はにとってはむしろ幸いだった。戦う力を失ったことで、カラスミたちを追いかけようという気持ちは完全に砕かれたからだ。もとより、にその資格はなかったのだが。
 ヴァンはそんなの心に深く立ち入ろうとはせず、そっとしておいてくれた。

 ところでには片付けなければならないものがあった。貯金箱バンクと禁貨だ。は今やカラスミの配下ではないのだから、それはもう不要のものだった……と捨ててしまうにはあまりにも愛しく、しかしあまりにもを苦しめる物だった。
 は、自らの火でそれを燃やそう、と思った。
 さて、どこで燃やそうかと思いながらココット町内をふらふらと歩いていると、はいつの間にか教会の前まで来ていた。古く堅牢な扉に施された彫刻を眺め、
(初めて四人でここに来た時も、こうやってこの扉を眺めていた。)
 はぼんやりと物思いにふける。
 それからきびすを返して町中に向かった。
 家々の間を抜け、商店街を通り、郊外の果樹園に来て、は、ホワイトキー探索の時に二人で通った道のりをなぞっていることを自覚した。ゆるやかな盆地に位置する町のはずれは坂道が多い。少しだけ早くなる鼓動を感じながらはどんどん進んだ。そして、町全体が見渡せる高台に到着した。



 ココット町はなだらかな傾斜の土地に発達した町だった。中央部には町の象徴的存在である大きな白い教会が佇み、家々はゆるやかな斜面に生えるように建っている。東の山側から西の平野にかけて、町を二つに割るように河が一本流れており、それが町と外界をつなぐ大動脈の役割を果たしていた。
 にとっては物語の始まり、そして終着点となった町だった。
 は町が一番良く見下ろせる場所に、貯金箱を置いた。モッツァレラとお揃いで買ってもらった、のししゅう入りの布袋。中で禁貨がからりと音を立てた。バンカーでない者が持つには重すぎて、願いを叶えるには軽すぎる量だった。
(貯金箱が燃え尽きたら、禁貨はここに埋めよう。)
 そう決めたのち、は貯金箱を見つめ、すぅと息を吸い込むと炎のを呼んだ。するとそれはカラスミ達といた時と同じようにすんなりと現れ、目標に襲いかかった。発火にもう少し手間取ると覚悟していたは、貯金箱のあっけない終わりを黙って見つめた。それから、炎越しにココット町を、その向こうの空と山々を眺めた。
 カラスミ達がどこにいるのかはもう見当もつかない。きっと今頃、禁貨ゴーグルの在りかを探して旅の空だろう。
 もしかしたらまた会えるかもしれないと、そんなことは今はまだ到底思う気にはなれなかった。ただ、の火を認め、必要とし、好きだといってくれた人たちが、どこかにいる。はその事実だけを魂に刻んでいた。
 の炎はゆらゆらと燃える。小さな光は遠く遠くのどこかへ向かい、一筋の煙が細く高く昇って行った。


Fin.

←BACK



鎮魂火シリーズのメニューページに戻ります