*4*


 その後は客室を後にし、洗い物と、その他の細々とした雑用を片付けた。その時目にとまったのはあの宿屋の台帳で、は仕事の合間、何ともなくそれをパラパラとめくってみる。父のしっかりとした太字で書かれた幾人もの客の名前の一番後ろに、自らの小さくきゃしゃな筆跡で、現在宿泊中の三人の名前が書かれていた。
 初めてバーグがここにやって来たのも、がこうして台帳を眺めていた時だった。ほんの数時間前のことだ。チェックアウトは明日の午前中となっていた。
 ……短い、な。
 はしばらくページを見つめていたが、やがてぱたんと台帳を閉じた。

 翌朝。は早くから起きて朝食のしたくを始めていたが、彼女が厨房に入って間もなく、階段を下りる足音が聞こえてきた。が厨房から出て見ると、ロビーにバーグの姿があった。彼はすでに着替えをすませており、さっぱりと眠気の飛んだ様子だった。
「おはようございます。」
 バーグはに気がつくと、おはよう、とあいさつを返した。彼はちょうど玄関扉の方へ向かおうとしていたところだった。
「お出かけですか?」
「ああ。ヒマだから、朝メシ前にひとっ走りしてこようかと思ってな。」
「そうですか。それなら、近くに公園がありますから、そこに行くといいですよ。」
「ああ、ありがとう。」
 それで会話は終わったはずだった。ところがバーグは、何か言いたげな様子でその場にとどまっている。なんだろう、と思っていると、
「……ところで、。」
 案の定彼はそう声をかけた。はい、とが返事をすると、バーグは誰も下りてきていないことを確認するように階段の方をちらっと見やり、少し声を落として尋ねた。
「昨日、フォンドヴォーに何か言ったのか?」
 はドキッとした。
「フォンドヴォーがそう言ってました?」
「いや、そうじゃないけど……。」
 バーグはもう一度階段を見る。誰かが現れる気配はなかった。
「いつものあいつなら、オレがランニングに行くって聞いたら、止めたってついて来るのにさ。それが今日は、じゃあオレはコロッケを見ときます、なんて自分から言い出して。まあ、最近のフォンドヴォーは無理しっぱなしだったから、それぐらいのほうがかえっていいとは思うんだが……。やっぱ気になってさ。」
 はどう答えようか迷った。昨日フォンドヴォーと話したことを言うべきだろうか。いや、それはやはり気が引けた。かといって変に嘘をつくのもどうかと思うし……。はしばらく言葉を探した。だが、彼女がそれを見つける前にバーグは軽く微笑み、
「ま、知らないならいいや。」
 とあっさり言った。
「とにかくフォンドヴォーもずいぶん落ち着いたみたいだからな。あいつも、もう大丈夫だろう。」
 そう言うとバーグは、扉の方へ向かって歩きだした。はあいまいにうなずき、彼の背中を見送っていたが、その視線はやがて床の上に落ちた。バーグの足音が、かつかつと宿屋の中に響く。足音は、扉の前でぴたと止まった。
「オレはな、。」
 が顔を上げると、バーグは扉に手をかけながらこちらを振り向き、やわらかく笑んでいた。前に、師弟でそっくりだと感じた、あの優しい笑顔だった。
「この宿屋に泊まって、良かったと思ってるよ。」
 そう言い残し、バーグは外に出て行った。がハッとしたのは、扉がきしみながらバタンと閉まった後で、返事はおろか、結局いってらっしゃいも言いそびれてしまった。
 もしかしたら彼は、「知らないならいいや」ではなく、「言いたくないならいいや」と言ってくれていたのかもしれない。はそう思いながらしばらくそこに突っ立っていたが、やがて漂ってきた焦げた臭いに、あれと異変を感じた。
「しまった、朝ごはん……!」
 彼女は慌てて厨房にかけこんだ。

 朝食はフォンドヴォーたちと一緒に食べた。間一髪黒コゲの危機を免れた品も、彼らはそれほど気にしなかった――今日はなかなか強火だね、と笑われてしまったが。
 そうしていつもよりもにぎやかな朝を過ごした後、は階下に向かう。厨房に入り皿洗いを始めた彼女だったが、思いはなんとなく複雑だった。理由は分かっていた。今頃バーグとフォンドヴォーは何をしているんだろう、旅立ちの準備をしているに違いない――そんなことをぼうっと考えてしまうからだった。
 ここに来て、ここから去っていく者の姿は、今まで何度も見てきていた。今回だけが特別なのではない。それなのに彼らとの出会いには何かを感じるような気がして、でもやっぱりは宿屋の娘として、笑顔で彼らを見送ることしかできないのだろうと、そう思うのだった。それなら、精一杯の気持ちを込めた笑顔で見送ろう。彼らが宿屋を出て行き、扉が完全に閉まってしまう、その瞬間まで。
 は、ざっと皿についた泡を洗い流した。

 それからしばらく後、二階から人が下りて来る気配がした。はカウンターに立ち台帳を開いた。赤ん坊を背負った男と、青年の姿が視界の端に映っていた。
「チェックアウトを頼むよ。」
 バーグはカウンターまでやって来るとそう言って、宿泊代を差し出した。釣りのない、ぴったり三人分の代金だった。はいつも父親がそうしているように金を受け取り、そして、いつも父親がそうしているように台帳にチェックアウトの印をつけた。
「ありがとうございました。」
 そうして宿屋を去る客にぺこりと頭を下げる親の姿も、は何度も見ていた。
「……また、お越し下さい。」
 でも、その言葉がこんなにも本心からこぼれうるものだとは、知らなかった。
 バーグはにこりと微笑みうなずいた。それから彼は扉へ向かう。背中のコロッケが不思議そうな顔をしてこちらを振り向いた。
「バイバイ、コロッケ。」
 そう言って手を振ると、コロッケものまねをして手を振った。
 ところが、続いてフォンドヴォーの姿が目の前に現れた時、は同じように即座にさよならを言うことができなかった。彼女はただ黙って彼を見た。彼のほうも、何と言えばよいのか迷っているようだったが、
「それじゃあ……。」
 ようやくのことで口を開いた。
「いろいろありがとう。その……。元気でね。」
「うん。フォンドヴォーも。」
 旅立つ者に湿っぽい顔を見せるのも嫌だったので、はにっこりと微笑んだ。だがフォンドヴォーはそんな彼女の笑顔を直視できなかったようだ。彼女から目をそらし、何かを言いあぐねるようなそぶりを見せていた彼は、しかし、やがて真っすぐにの目を見た。
。」
 彼の瞳は金色だった。それも輝くばかりの黄金色ではなく、言うなれば昨晩の月にもどこか似ている、優しい、穏やかな金色だった。きれいだと、は思った。
「オレたちは……いや、オレは、きっとまたこの町に戻ってくるよ。きっと誰よりも強い男になって帰ってくる。そしたら、君に……。」
 フォンドヴォーはそこで少し言葉を切った。に? とが続きを促すと、彼は瞬時ごまかすように目を泳がせ、
「オレの……手料理をごちそうするよ。食べたいって言ってたろ? その時までには、に出しても恥ずかしくないぐらいの料理、作れるようになっとくからさ。」
 フォンドヴォーはそう言って笑った。どこか照れたようにも見えるその笑みには、まだわずかに少年の影が残っていた。
 それから彼は、じゃあねと言って手を振ると、ゆっくり扉の方へ向かっていった。部屋に何か忘れ物をしなかったか、一つ一つ思い返しているような足取りで去っていく彼の背を、はじっと見送る。何か言いたいような気がしていた。でも、それが何なのかは明確でなかった。
 フォンドヴォーが扉を開ける。ぎいっときしんだ音が響く。何かを言うなら今だった。――だが、何を? フォンドヴォーが宿屋を出た。ぎいっと音を立てながら扉が閉まっていく。彼の姿が消えていく。
 バタンという音が宿屋に響いた。はしばらくそのままそこにいた。だがその響きが消えてしまう前に、彼女は扉へ向かって、走りだした。

 バンと荒々しく開いた扉の音に、バーグとフォンドヴォーは驚いて振り返った。見ると、今しがた二人が出てきた宿屋の前に、が立っていた。
……。」
 彼女はだが、ただ黙ってフォンドヴォーたちを見つめるばかりだった。
「どうしたんだ、。あっ……もしかしてオレ、また何か忘れ物しちゃったか?」
 バーグは慌てて身の回り品を確かめた。それでは笑って、いえ違うんです、と答える。
「その……。」
 どうしてか、なんて彼女自身にも分かっていないことだった。けれどそれは確かに嘘ではなかったし、もしかしたら、それが正しい答えだったのかもしれない。だからは、一呼吸する間をおいた後、言った。
「お見送りしようと思って!」
 フォンドヴォーたちは、宿泊所を去るときにそんなふうに見送ってもらうなど初めてのことだったのかもしれない。そう思えるような驚いた表情が一瞬二人の顔に浮かんだが、しかしそれはすぐに微笑に変わった。
「そうか。それは嬉しいな。」
「ありがとう、。」
 メンチまでもが、ブヒッと礼を言った。
 それからバーグは、じゃあなと軽く手を上げ、きびすを返した。フォンドヴォーも背を向ける前に何かを言おうとした。だがその言葉がうまく言葉にならなかったのか、彼は結局、またね、とそれだけ言った。は、うん、とうなずいた。彼女もまたそれ以上の言葉は言わなかった。
 二人のバンカーが道を歩きだした。は彼らの背中を見送っていた。
「お気をつけてー!」
 彼らはちらとこちらを向くと、めいめい笑顔でに手を振った。ああ、やはり二人の笑顔はよく似ている。その優しさが、そっくりなのだ。
 両親は今日の夕方ごろ帰宅する予定だった。台帳を見たら、父はきっと怒るだろう。そんなことは彼らの名を台帳に書き留めた時から覚悟していた。でも、後悔なんてしていない。怒られるだけ怒られたら、事情を話してみよう。お父さんだってバンカーが嫌いなわけじゃないんだから、きっと分かってくれる。偶然の中で出会った素敵なバンカーのことを。
 町の雑踏の中に、バンカーたちの姿はまだ見えていた。はかすかに微笑みながら、彼らの背中を見守っていた。


Fin.

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