とまり木










*1*


「とにかく、バンカーだけは泊めるんじゃないぞ。」
 父は強く念を押した。
「何か困ったことがあったら連絡するのよ。」
 と母も言った。は、分かってるって大丈夫、と答えると、一泊二日の旅行に出かけた二人を見送った。
 は宿屋の一人娘だ。今日は両親の結婚記念日。いつも頑張ってくれている二人のために、とプレゼントした夫婦水入らずの旅行の切符は、の娘としての思いやりだった。たまには親孝行しなくっちゃね。
 宿泊客は現在一人もいなかったので、二人の留守中、宿屋は閉めておくことになった。は、二日くらいなら自分一人でも客の面倒は見られると主張したのだが、父に反対された。
「バンカーが来たらどうするんだ。」
 それが父の言い分だった。普段ならバンカーだって泊めてあげるのに、ずいぶんな理由だとは思ったのだが、お父さんは可愛い娘のことが心配なのよ、と母は笑って言った。実際父はのこととなると必要以上に心配性になってしまうところがあり、それは自身もよく分かっていた。宿屋は閉めておくと言っているのに「バンカーを泊めてはいけない」と改めて注意をするところなんてまさにそれだ。まあ、そうまでして自分のことを心配してくれる父親にあえて反発しなければならない理由もないのだし、は今回は父に一歩譲ってあげることにした。
 というわけで彼女は今、誰もいない宿屋でお留守番。

 宿屋は一階が受け付けロビーと手洗い場、入浴場と、たち宿主の生活場所で、二階には六室の客部屋があった。小さな宿屋だ。
 はロビーでのんびりと時間を過ごしていた。暇つぶしのつもりでした客室の掃除は午前中に終えてしまった。客の世話で忙しい一日というのも大変だが、こう何もないのもかえって困るものだ。
 ロビーの見慣れた景色を眺めながらそんなふうに思っていた時、はふと受付のカウンターに目を留めた。特に何か理由があるわけではなかったのだが――しいて言うなら気が向いたので、はそちらへ向かった。いつもは父が、ここで客が来るのを待っている。カウンターの上には、使い古された台帳が載っていた。ぱらぱらめくって見ると、今までにここに泊まった人々の名前が連なっていた。名前の横に小さく、円の中にバツが入った印がついている客は、バンカーだった。はところどころ紙面に浮いたバンカーマークを、じっと見つめた。
 正面扉の開く音がしたのはその時だった。
 は驚いて顔を上げた。休業中の宿屋に客が来るはずはないのだから、当然の反応だった。
 入ってきたのは一人の男だった。青年というには語弊があり、中年というには若すぎるぐらいの歳だった。筋肉隆々というわけではないが、割とがっちりした体つきの男だ。服装はきわめて簡素。額と耳周りを保護するような少し変わった形の赤い帽子をかぶっていて、頭上に何か黄色くて丸っこいものをのせていた。よく見るとそれは、可愛らしいブタの人形だった。
 彼はちょっと宿屋内を見回し、受付にいる少女を見つけると真っすぐそちらに向かった。
「一泊お願いしたいんだけど。」
 言って彼は小銭の入った袋をカウンターの上に置いた。
 彼はほとんど手ぶらだった。背中に荷物を負っている他は何も持っていない。――いや、それもよく見ると荷物ではなかった。彼が背負っていたのは、小さな赤ん坊。赤ん坊は心地良さそうに眠っていた。
 は男の顔を見た。その時一瞬ぎょっとしたのは、彼の左目がひどい古傷でつぶれていたからだが、しかし外界を見つめるもう片方の彼の目には、優しい光が宿っていた。
 悪い人じゃなさそう。ところがそう思った時、は彼の帽子に、宿屋の台帳にぽつぽつ浮いていたのと同じマークを見つけ、どきりとした。
 ……バンカーだ。
「一番安い部屋を頼むよ。もし空いていたら。それで……」
「あ、あの、すみません。今日は宿屋、休みなんです。」
 は慌てて彼をさえぎった。男は一瞬きょとんとした顔をした。あ、怒らせたかも。はわずかに恐れた。なにせ相手はバンカーだ。だが男は、落ち着いた様子で、そうなのか、と言った。
「それじゃあ……仕方ないか。」
「ごめんなさい。」
「いや、オレのほうこそ悪かった。休みだというのにお邪魔しちゃって。」
「一応入り口には『本日休み』の貼り紙があったと思うんですけど……。」
「え、ホントに?」
 男はここに入って来た時のことを思い返すようなそぶりをしたが、どうも貼り紙は彼の目には留まっていなかったようだった。
 その時、彼の背中の赤ん坊が目を覚まし、なにやらぐずり始めた。男は慌てて背中をゆすって赤ん坊をあやし、それからもうここにいる必要がないことに気がついたようだ。そそくさと扉の方に向かった。ただ、彼は去る前に一度だけ振り返り、
「どうしてもダメ……かな。一泊だけでいいんだけど。」
 に尋ねてみた。父親の言いつけがの頭をかすめる。
「すみません。」
 彼女はそう答えるしかなかった。男は申し訳なさそうに微笑むと、宿屋を出て行った。扉がギィーッと鳴き、それからバタンと閉まった。
 は小さく息を吐いた。びっくりした。まさか本当にバンカーが来るとは。しかも、子連れのバンカー。……あの赤ちゃんの寝顔、とっても可愛かったな。
 は若干の罪悪感を抱いた。確かに今日明日と宿屋は休みだが、客を受け入れることが物理的に不可能というわけではない。父の言いつけを守ったといえばそれまでだが、結局は、彼がバンカーだから拒んだのだった。それには知っていた。この町には、宿屋はここしかないことを。
「悪いことしちゃったかなあ……。」
 悔やんでも後の祭りだった。は先程とはまた違った心持ちで、小さくため息をついた。
 ところがは、ふとカウンターの上に目をやって、ハッとした。そこにあったのは古びた台帳と、それから、小さな布袋。
 あの人の忘れ物だ!
 は袋を手に取った。と、中で金属のこすれる音がかすかに響く。失礼だとは思いつつも、はそっと中身をのぞいてみた。ひょっとしたら、例の禁貨ってやつが入ってるのかしら。いや、中にあったのは二、三泊の宿泊に足りるか足らないかという程の、わずかな小銭だけだった。きっと大切なお金に違いない。
 は正面扉を見た。待っていればたぶんそのうち、忘れ物をしたことに気がついて彼は戻ってくるだろう。しかし、彼がここを出て行ってからまだそれほど時間は経っていなかった。すぐに行けば、追いつけるかもしれない。
 は駆けだした。せめて忘れ物を届けでもしなければ、という後ろめたさが、その時の彼女を動かしていた。

 外に出た時、彼の姿はどこにも見えなかった。左手前方にはL字路がある。もしかしたら彼はあそこを曲がったのではないかと思い、はそちらへと走った。とにかくあの人に追いつかなければ。彼女の頭の中はそのことで一杯で、だから角を曲がった時、は逆方向からやって来た人を避けきれず、どんっと肩をぶつけてしまった。
「わっ!」
 すみません! は反射的にそう叫ぼうとした。瞬間、激しい怒鳴り声が飛んできて、彼女の言葉ははね飛ばされてしまった。恐る恐る見上げると、見るからにガラの悪そうな男が、衝突したと思われる箇所をさすりさすり、こちらをにらんでいた。しかも、彼の額には大きなバンカーマークが刺青されていた。
「どこに目ぇつけてんだよ姉ちゃん! 角を曲がる時は右見て左見て手を挙げてって母ちゃんに教わらなかったのか!?」
 それは横断歩道だろうという指摘は後にして、はまずは謝ろうとした。だがぶつかった男は聞く耳を持たず、さらに罵声を響かせた。
「このオレ様にぶつかっといて、タダですむと思うなよ。なんせオレはお前ら一般人とは格が違う、バンカーなんだからな!」
 は後ずさった。やばい、相手が悪かった。バンカーはバンカーでも、この粗野な男はが探しているバンカーではない。いっそ逃げてしまおうか。
「おいおい、どこ行くんだよっ。」
 の逃亡の気配を感じ取った男は、がっと乱暴に彼女の腕を捕まえた。その拍子に、彼女が握りしめていたあの小銭入りの袋が手からすべり落ちる。袋は地面に激突し、小銭が騒がしく音を立てながら周囲に散らばった。男はじろりと音のした方を見た。
「……金か。たいした額じゃねえみたいだが、まあ慰謝料にでももらっておこうか。」
 男はを突き飛ばして手を放した。その勢いでは数歩うしろによろめいたが、なんとか転倒は免れる。それから見ると、男が地面にかがみこんで散らばった金を拾い始めていた。
 どうしよう。あれは人様のお金なのだ。忘れ物を届けるつもりで、当の届け物を失くしてしまったのでは、あまりにも申し訳が立たなさすぎる。確かにバンカーは恐い。暴力をふるわれでもしたら絶対に太刀打ちできない。……それでも。はごくっと唾を飲み込み、それから息を吸い込んだ。
「返して。」
 バンカーは一瞬驚いた顔でを見た。がすぐに、その顔は嫌味な笑みで満たされる。
「何だって?」
「た、大切なお金なの。返して!」
「フン……。このはした金で勘弁してやるって言ってるのに、まだオレ様に歯向かう気かこの女!」
「きゃっ……!」
 男が手をあげた。はとっさに目をつぶり、小さくすくんだ。
「その辺でやめときな。」
 別の男の声が聞こえたのはその時だった。
 はそうっと目を開けた。見ると、空色の肌の青年がバンカーの手を背後からつかみ、彼の暴行を阻止していた。バンカーは肩ごしに青年をにらみつける。
「な、なんだキサマ……。」
「ちょっと通りかかったんだけどね。女の子をいじめるなんて、バンカーのすることじゃないんじゃないのか。」
「なにい、ナメた口をきくんじゃねーよこのガキ!」
 バンカーが青年の手を振り払い、振り向きざまに彼に殴りかかろうとした。危ない! は思わず叫びそうになった。だが、すばやく体勢を立て直した青年は次の瞬間、男の拳をがっしりと受け止め腕をつかむと、そのまま鋭い気合とともに彼をその場にたたきつけた。悲鳴をあげながら地面に倒れたバンカーの顔面を狙い、青年はさらに殴りかかる――いや、彼の拳は男の目の前でピタリと静止した。
「今度こんなことをしていたら、オレの拳はここでは止まらないぜ。」
 男の額を汗がつっと流れた。彼はうわああ! と声をあげると、大慌てでその場から逃げだした。去り際に捨てていった小銭が、高い音を立てて地面に散った。
 は呆然としてその場に立ちつくしていた。落ちた硬貨の残響が頭の中をめぐっていた。
「大丈夫?」
 声をかけられ、はようやく我に返った。空色の肌の青年が心配そうにの顔をのぞきこんでいた。
「驚かせちゃったかな。ごめんね。」
「う、ううん……。助けてくれてありがとう。」
 どういたしまして、と青年は笑みを見せた。さっきの戦闘のかけらも見せない彼の瞳は、優しい金色をしていた。は一瞬、その色に見覚えがあるように感じたのだが、それをどこで見たのか思い出す前に青年はから視線をはずし、地面にかがみこんだ。散らばったお金を拾い集めているのだった。
「あっ、すみません。」
「いいよ。大切なお金なんだろう? 盗られなくて良かったね。」
「えっ、あ、それは……うん。」
 はこのお金が自分のものではないこと、他人の忘れ物だということを言おうかどうしようかちょっと迷ったが、彼にそれを説明したところでどうなるわけでもないし、それに説明しだすと長くなりそうだったので、結局何も言わないでおいた。とにかく今はさっさとお金を拾い集めて、あの子連れバンカーに届けてあげなければ。そう思ったは、青年の隣にかがみこみ、落ちていた袋を拾いあげると自分もその中に小銭を集め始めた。
「本当にありがとう。」
 は言った。
「あの、お名前は?」
「オレ? フォンドヴォーっていうんだ。」
「フォンドヴォーさん、か。」
「あはは、『さん』なんていらないよ。フォンドヴォーって呼んで。」
「じゃフォンドヴォー。……すごく強いのね。あんな恐そうな人相手に。」
「強いだなんてそんな……。オレはただ、同じバンカーとしてあいつを許せなかっただけで。」
 はハッと顔を上げ青年を見た。
「バンカー、なんだ。」
「うん。」
 フォンドヴォーはこともなげに答え、また地面に目を落とした。真紅の髪が、はらと彼の頬にかかる。恐いくらい綺麗な赤い色の髪の毛だったが、それは西方に輝く夕日の色を思い出させるようでもあった。
「君の名前は?」
 フォンドヴォーが聞いた。
。」
「じゃあ、はい、。こっちに落ちてたのは全部拾ったよ。」
 そう言うとフォンドヴォーは握った左手を差し出した。が手の平を出すと、彼はその上に自分の拳を置き、開いた。チャリンというかすかな音が二人の手の間で鳴った。
 はありがとう、と微笑むと、受け取った硬貨を袋に入れた。とその時、フォンドヴォーがあれっ、と声を出す。
「どうかした?」
「いや、が持ってるその袋……」
 しかし、フォンドヴォーがその先を続ける前に、
「あっ、いたいたフォンドヴォー!」
 聞いたことがあるような声がして、は振り返った。とたん、
「バーグ師匠!」
 フォンドヴォーが叫び立ち上がった。
 そこにはあの、背中に赤ん坊をおぶったバンカーの姿があった。バーグ師匠と呼ばれた彼は、二人の姿を見とめると、ちょっと意外そうな顔をして彼らに近づいてきた。
「あれっ? 宿屋のお嬢ちゃん?」
「よかったー、探してたんですよ。」
 はホッとして言った。だが、男のほうはが彼を探す理由に見当がつかないらしい。不思議そうな顔をしてを見たが、彼女が忘れ物のことを話しだす前に、フォンドヴォーがええっ? と声をあげた。
「二人は知り合いだったんですか?」
「フォンドヴォー、お前こそ、その子と知り合いなのか?」
「いや、オレは……。」
 三人はそれぞれ顔を見合わせた。バーグの背中で、赤ん坊がすやすやと心地よさそうに眠っている。互いに説明しなければならないことが、たくさんあった。


To be continued...

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