仮寝の夢










 東の空が赤く燃え、太陽の来訪を告げていた。
 だがコロッケはそれに気づくこともなく、すでにボロボロになった体に鞭打ち、必死になって拳を繰り出す。
「グオオォ!!」
 突き出された彼の拳は、襲いかかってきた一頭の熊に見事に当たった。熊は一声うめいたと思うと、その巨体を地に伏せた。
「ハア、ハア……これで、最後だな……!」
 緊張した姿勢のまま、コロッケはすばやく周囲を見回した。数えきれないほど多くの獣たちが彼の周りに散らばり、気絶していた。動く影は、もはやない。
 コロッケは長い息を一つ吐き、額の汗をぬぐった。血の混ざった汗がべったりと手についたが、それに顔をしかめる余裕すら彼にはなかった。
「待ってろよ、オコゲ師匠……!」
 つぶやいて、少年は遠方にそびえる山をにらみつけた。いまだ明けきらぬさびた紺色の空を背にして彼を見下ろしているそれは、山というよりも大きなツルツルのガケだった。あの絶壁の頂上に、「オコゲ師匠」はいる。
 あそこから突き落とされ、変貌したウェルウェル=ダンダン村の村人を倒し、こうして再びガケの頂上を見すえるのは、これでもう何度目か知れなかった。だが、何度目だろうと同じことだ。コロッケはオコゲが弟子入りを許してくれるまで、何度だって起き上がるつもりだった。
「オレは絶対……あきらめない……からな……。」
 うわごとのようにそうつぶやきながら、コロッケはオコゲのいる場所へ向かい、重い足を引きずり始める。しかし、数歩と行かないうちに彼の意識はふっつりと途絶え、今しがた自らが倒した大熊と同じように、その場に倒れこんだ。

 目が覚めると、コロッケはベッドに寝ていた。
 やわらかなぬくもりが、彼を包み込んでいた。
 ――あたたかい。
 彼はゆっくりとまばたきした。
 どこともなく漂わせた視線の先には、わらぶきの天井が見える。それは日の光をいっぱいにつめこんだ色をしていた。長い間住人たちを守ってきたのだろう、壊れた所を修理したような跡も見うけられた。コロッケはその跡を目でなぞった。そしてゆっくりと移動する彼の視線が何往復かを終えた後、彼はいまだかすんだ思考の中で、ここはどこだろうとつぶやいた。
「コロッケ。」
 その時、聞き覚えのある声が聞こえ、コロッケはハッとしてそちらを向いた。
「起きてたんだっぺか。おはよう。」
「T-ボーン……!」
 コロッケは思わず身を起こした。瞬間、一筋の痛みがズキンと頭を突き抜けた。
「無理しちゃダメだっぺ。」
 痛みに顔をしかめたコロッケを見て、T-ボーンは言った。
「平気だよ。急に起き上がったから、ちょっとクラッとしただけ……。」
 コロッケはきょろきょろと辺りを見回す。
「ねえ、ここって……。」
「オラの家だっぺ。」
 ああ、やっぱり。コロッケがそう思った時、何かが彼の頭に飛び乗った。それは満足そうにそこに腰を落ち着けると、ブヒと鳴き声をあげた。
「メンチ。」
「メンチも心配してたっぺよ、コロッケのこと。ちっとも目覚まさねーから。」
 それからT-ボーンはちょっと待っててくんろと言い残し、部屋の外に消えた。その後すぐ、母さーん、コロッケ起きたっぺよ! と言う声が聞こえた。
 メンチと二人、部屋に残されたコロッケはベッドの上に座ったまま、ぼんやりとT-ボーンの部屋を眺めた。
 西側の窓から、やわらかな赤い陽がさしている。簡素な家具や床の一部がその光をあびて、きれいなオレンジ色に染まっていた。T-ボーンの帽子の色みたいだ、とコロッケは思った。
「目が覚めたって!? 大丈夫かい?」
 間もなくT-ボーンの母親と、T-ボーンが部屋に入ってきた。母親のほうはたいそう心配そうな表情を浮かべている。彼女はバスケットとマグカップの乗った盆を持っていた。
「なかなか起きないから心配したよ!」
「オレ、どれぐらい寝てたの?」
「そうだねえ……。村はずれで倒れているのを見つけたのが今朝だったからね。それからずっとだっぺ。」
 コロッケはそう……とつぶやいて口をつぐみ、またすぐに言葉を続けようとした。だがそれよりも早く、T-ボーンの母がベッドの上に盆を置いて言う。
「さあさあ! とにかく今はこれ食べて! あったかいうちにね。元気出るから。」
 盆の上には、こんがり焼けた丸いパンのたくさん入ったバスケットと、かすかに湯気の立ったホットミルク、それから、さっきはバスケットの陰になっていて気がつかなかったが、木製の皿いっぱいに注がれたスープが乗っていた。それらを見た瞬間、今までなりを潜めていた空腹が突然コロッケに襲いかかる。彼はコクッと唾を飲み込んだかと思うと、いただきますを言うのも忘れて盆の上の食事に飛びついた。
「たくさん食べるっぺ。まだあるからね。」
「うん……ありがとう! T-ボーンの母さん。」
 いつのまにか、メンチも彼のそばでパンをかじっていた。T-ボーンの母親は側にあったイスに腰かけながら、コロッケたちを愛おしげに見つめていた。
「T-ボーンがコロッケを見つけてね、連れて帰った時にはびっくりしたよ。おまけに体じゅう傷だらけだったし。」
 言われて初めて、コロッケは自分の体のあちこちが包帯やばんそうこうで手当てされているのに気がついた。
「オラもびっくりしたっぺ。なんであんな所で寝てたんだ、コロッケ?」
 コロッケはそれまで一生懸命にもぐもぐやっていたのを飲み込むと、それは……と上手い返答を考えた。まさか動物に変身したウェルウェル=ダンダン村の皆と一晩中戦っていた、なんて言えるわけはないし。
「……まあ、細かいことはいいっぺよ。だいたい男っていうのはいつだって人に言えない理由で傷つくもんさ。そうそう、うちの父ちゃんも今朝ねえ、顔合わすなり、救急箱どこやったっぺ? って。ケガしたんだって言うんだけど、なんでケガなんかしたんだって聞いたら、自分でもよく分からねえ、なんて適当なこと言うんだよ。大方、野良仕事やってる時にヘマでもやらかしたんだろうけど、そんなことぐらい隠さなくたっていいのにねえ。それともそんなことだから、余計に隠したくなるのかね。」
 言ってT-ボーンの母は朗らかに笑った。コロッケもつられて苦い笑いをこぼした。ごめんね、おっちゃん。それ、昨日犬に変身したおっちゃんと戦った時に、オレが負わせた傷だ。
「とにかく、コロッケにも何か他人に言えない理由があるんだっぺ? 別に詮索しないから、心配しなくていいよ。大事なのは早く元気になること! ほら、お腹すいてるんだろう? もっとおあがり。」
 すすめられるままに、コロッケはもう一つパンを手にとって食べた。カリッと香ばしい匂いが口いっぱいに広がった。それがまだほんのりと温かかったのは、焼きたてのものを彼のために用意してくれていたからなのだろう。そえられていたさじを使うのもじれったくて、皿を持ちそのまま口をつけたスープは、コロッケの体を熱く満たした。
 思い返してみると、こうしてまともに食事をとるのは久しぶりだった。コロッケもメンチも、夢中になって目の前のごちそうにありついた。
 そうしてしばらく部屋の中にはコロッケたちが食事をする音だけが響いていたが、突然階下からドタドタと走る音が聞こえてきて、だんだん近くなったと思うと、やがて二つの小さな人影が部屋に転がりこんできた。T-ボーンの弟たちだった。
「母ちゃん母ちゃん、見て見て見て! 花いっぱい摘んできたっぺ!」
「二人で摘んだんだっぺよ!」
 言いながら、二人は競うようにして自分の持っている花の束を母親に見せた。彼女は満面の笑顔で二人の子どもたちのどちらをも誉めた。小さな彼らはそれぞれに得意気な様子を見せていたが、そのうちに妹の方がベッドの上の見知らぬ人物に気がついた。
「あれ、あの人誰だっぺ?」
「オラの友達のコロッケだっぺよ。この間、遊びに来てくれたろ?」
 答えたのはT-ボーンだった。
「あっ、あの人か!」
 コロッケのことを承認した二人は、彼のほうを向くとめいめいにこんにちわ! とあいさつした。コロッケも笑顔で返答した。
「お兄ちゃん、ケガしてるっぺ?」
 包帯やばんそうこうだらけのコロッケを見て、弟の方が聞いた。コロッケは、うん、ちょっとね、と答える。
「じゃあ、お見舞いだっぺ!」
 そう言ってT-ボーンの妹はとっとっとベッドの方へ近づいて来たかと思うと、枕元にあった花びんに、持っていた花束を全部さした。
「オラも! オラもお見舞いー!」
 続いて弟のほうも、彼女がやったのと同じようにした。花びんにはすでに数本の花がさしてあったのだが、小さな子どもたちの贈り物が加わったとたん、それは赤や白や黄色の可愛らしいにぎやかさを増した。
「ありがとう。」
 コロッケはにこりと微笑んだ。彼らは少しはにかみながら、どういたしまして、と答えた。
 と、その直後、T-ボーンの弟がベッドの上に置いてある盆に気がついた。彼はああ! と叫んでそれを指差すと、
「母ちゃんのパン! いいなあ。オラにもくんろ!」
 と瞳を輝かせた。
「あたいも欲しい! 母ちゃん、おなかすいたようー。」
 妹のほうは甘えた声を出しながら、母親の周りをぴょんぴょん飛びはねた。母は娘の頭を優しくなでると、はいはいと立ち上がった。
「それじゃすぐパン焼いてあげるからね! 先に下に行ってな。」
「はーい!」
 幼い子どもたちはキャッキャッと笑い声を上げながら部屋を出て行った。そうして彼らはやって来た時と同じように階段を駆け降りていったが、やがてその音も小さくなり、階下に消えた。
「……それじゃあそういうことだから、ちょっと下に行ってくるけど、何か欲しいものとかあったらいつでも言うっぺよ、コロッケ。T-ボーンに言ってくれたらいいからね。」
「うん、わかった。ありがとう、T-ボーンの母さん。」
「T-ボーン。コロッケのことよろしくね。」
「任せるっぺ。」
 そしてT-ボーンの母親は、いそいそと子どもたちの待つ一階へと向かった。部屋を出る前に彼女はコロッケのほうをちょっと振り返ると、ゆっくり休むっぺよ、と微笑んだ。
 扉がぱたんと閉まり、階段を降りる足音も遠くなると、部屋はなんだか急に静かになった。
 T-ボーンは母が座っていたベッドの側のイスに腰かけ、具合はどうだっぺかコロッケ、と問いかけた。
「もうだいぶいいよ。」
 コロッケは笑顔で答える。
「T-ボーンの母さんのおかげ。」
 T-ボーンは満足そうにうなずいた。
 コロッケは盆の上のマグカップを取り、それを包み込むようにして両手で持った。とても温かかった。そっと口をつけると、熱い牛乳がじんと体に染みわたった。飢えて泣いていた腹の虫もようやくおさまって、コロッケはほっと一つため息をつく。
 ふと、目をやった先に花びんの花が見えた。今しがた、T-ボーンの兄弟たちがコロッケのために、とさしていってくれたものだった。それらは決して立派でもなかったし、大きくもなかったが、色とりどりに咲いているその花たちはとても――美しかった。
 コロッケは再びマグカップを口元に運んだ。下の階から、T-ボーンの家族が何か楽しげに話している声が聞こえていた。部屋が静かだったから、よく響くのだろう。
 T-ボーンはイスに腰かけたままウトウトと眠り始めていた。自分の家に帰って来てほっとしたからなのだろうか、いつもよりも幸せそうな友の寝顔を見て、コロッケは小さく微笑んだ。
 マグカップに残った牛乳をすべて飲みほしたのと同時に、ひときわ大きな笑い声が聞こえた。その温かさは、彼にじんわりと染みこんだ。
 コロッケは空になったマグカップを持ったまま、そこにほんのり残る温度を感じていた。そうしてしばらく、彼はいまだ絶えない談笑の響きを耳にしながら、じっと宙を見つめていたが、突然、ベッドから飛び下りた。T-ボーンが驚いて、眠たそうに垂れていた頭を持ち上げた。ドアの側にコロッケの後ろ姿が見えた。
「コロッケ? どこ行くっぺ?」
「T-ボーン。オレ、もう行くよ! 行かなきゃならないんだ。」
 コロッケは彼の質問に答えるかわりにそう言って、T-ボーンの部屋を出た。
「コロッケ!」
 T-ボーンも慌てて彼の後を追った。

 二階から階段を駆け降りる音が聞こえて、そちらへ顔を向けたとたん飛び込んできたのがコロッケの姿だったので、T-ボーンの母親は最初少し面食らった。
「コロッケ! もう大丈夫なのかい?」
「うん、平気! ほんとにいろいろありがとう、T-ボーンの母さん。それじゃ!」
「ちょ、ちょっとコロッケ!」
「コロッケ! 行っちゃうんだっぺか!」
 背を向けたコロッケにそう叫んだのは、彼を追って階下に姿を現したT-ボーンだった。コロッケは走り出そうとした足を止めて振り返り、彼にうなずいてみせる。その間にT-ボーンの母親はコロッケの側に駆け寄って、言った。
「そうは言ったって、今日はもう遅いっぺ。泊まっていってもいいんだよ。」
「うん、でも、オレ、行かなきゃならないから。」
「だども傷がまだ……」
「いいんだ、大丈夫!」
 彼女の厚意を振り払うようにして強く発したその言葉は、一瞬家の中をしんとさせた。T-ボーンの弟たちも驚いて、母親の焼きたてパンを手にしたまま、戸惑った様子でコロッケのほうを見つめていた。
「オレは……。」
 静かな空間にコロッケの声だけが響く。
「オレには……待ってる人がいるんだ。そいつにももう一度、家族に会わせてやりたいから、だから……。」
 一度目を伏せたコロッケが再び顔を上げた時、その瞳の中には強く輝く決意が見えた。
「オレ、行くよ!」
 誰も何も言わなかった。だがややあって、T-ボーンの母親は小さく笑みをこぼした。
「……そうかい。分かったっぺ。」
 コロッケは彼女の了解の笑みを見て安心したように笑み返し、今度こそ本当に背を向けて、走り出した。
「お腹がへったら、いつでも遊びにくるんだよ!」
 家の外まで出てコロッケを見送ってくれたT-ボーンの家族たちに向かって、コロッケは大きく手を振った。
 西の空はまだ炎を残していた。コロッケはその遠い炎の鱗片を眺めながら、ぽつりとつぶやく。
「メンチ。T-ボーンの母さんのごはん、すごくうまかったな。」
「ブヒ!」
「それにすごく、あったかかった……。」
 コロッケの顔にふっと、懐かしくも切ない色が浮かび、またすぐに消えた。
「オレも早く十倍強くならなきゃ。それでいっぱい禁貨を手に入れて……。アンチョビと、約束したんだもんな!」
 コロッケの言葉にうなずき励ますかのように、メンチは再び鳴き声をあげた。
 深い紫紺に染まった空に、黄金の満月が姿を現し始めていた。それは穏やかな、しかし挑戦するかのような光を少年に投げかけていたが、コロッケの決意は今、それすらも打ち消してしまうほど強く燃えている。彼の歩みは、誰にも止められないように思われた。
「絶対弟子にしてもらうからな、オコゲ師匠ー!!」
 月の光に包まれつつあるその小さな村に、少年の声は高く響き渡った。


Fin.





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