鮪解体師










 目の前のまな板に、大きなマグロが横たわっている。はこれをさばかなければならない。そうしなければ、に明日はない。けれどもはさばくことが出来ない。その技能をは持ち合わせていないからだ。まな板の前に置かれている、の腕よりも長い刃のマグロ包丁に触れることも出来ず、は自分の無力さに震える。
「くくく……力が欲しいか、?」
 は驚いて振り返った。いつの間にか一人の少年に背後を取られていた。幼さの残る顔立ちには似合わない高圧的な微笑みを浮かべ、夕陽のような両眼でらんらんとを見据えている。深いぶどう酒の色合いをした上衣をまとい、乱雑に伸ばした黒い長い髪のせいで、一瞬闇に浮かんでいるように見えた。
「どうしての名前を……。」
「力が欲しいかって聞いてんだよ。その馬鹿でかいマグロをさばけるようになりてぇのか、それともマグロよりも馬鹿な面さらしてそうやって突っ立ったままがいいのか、選べ。」
 こちらの問いには答えず、乱暴な物言いで迫る少年には気圧された。がそれ以上に、は与えられた責務――マグロをさばくという無理難題を解決する糸口を思いがけず得たことに、前のめりになった。
「マグロをさばけるようになる、って本当に!?」
「ああ、本当さ。オレさまは嘘はつかねぇ。」
 にやあっと笑う少年を信じる義理も保証もなかった。だが、いずれにせよにはマグロをさばく以外に道はないのだ。ごくりと唾を飲み込み、は少年に一歩近付いた。
「力を……くれ!」
 少年がさらに大きく口角を上げた。そしてに向かっておもむろに手のひらを向けた、次の瞬間、閃光が走った。身体中を電気が流れるような衝撃が襲い、は悲鳴をあげる。ぐらぐらする頭を支え、体勢を立て直した時、に外傷はなかった。まばゆい光に少し驚いただけで、変化は何もなかったらしい。というの判断は、宙に浮いた焦点がまな板の上のマグロを捉えた時、覆った。
 マグロのどこに刃を当てればそれを解体できるのか、分かる。
 気が付けばはマグロ包丁の柄をつかんでいた。扱うことすら出来ないと諦めていたその刃物は、今やの意のままに、もはやの身体の一部と言っても過言ではないほど、滑らかに鮮やかにマグロを切り刻んだ。
 すべてが終わった後、残ったのは美しく盛られたマグロの刺身と、最も合理的に身を削ぎとられたマグロの骨、そして理解せぬまま事を成し遂げたの高鳴る鼓動だけだった。
「ふうん、やるじゃねぇか。」
 一部始終を見ていた少年は、の横からひょいと手を伸ばすと、したたるような血色をした天身(注:マグロの赤身の中でも最もきめが細かく最上級とされる部位)を一貫つまみ、ぺろりと口中に放り込んだ。は、彼の口元の満足げな上下が止まり、その舌が唇についた魚脂を舐め取るまで、ただ呆然と物も言えずにいた。
「あなたは……一体。」
 ようやくそう尋ねると、少年はフンと嘲笑に近い音を吐いた。
「オレの名は技神まー。」
 彼の声は冷たく、それでいて重厚にの中に響く。
。オレはお前に力を与えた。代わりにお前には一つやってもらいたいことがある。」
 もとよりただでマグロをさばけるようになるとは、も思っていなかった。それでも、マグロをさばく、その大義を終えたにとっては、どんな条件もあってないようなものだった。
「技々みみみを、倒せ。」
「技々みみみ……?」
 それはある場所である宝を守っている番人の名前だと、技神まーは説明した。技々みみみを始末すること、それがマグロをさばけるようになる代わりにに与えられた責務だった。
「もしもお前が技々みみみを倒せなければ……。」
 技神まーは意地悪げにそこで言葉を止めた。どうなるんだ、とが続きを催促すると、彼はくくくと愉快そうに笑う。
「どうなろうと関係ねえよ。てめぇには技々みみみを倒すしか筋書きはねえんだ。分かったらとっとと行け。」
 技神まーの発言は無茶苦茶だったが、それ以上の詮索に意味はなさそうだったので、は分かった、とうなずいた。


 技神まーに導かれ山の上に到着すると、そこにいる番人、技々みみみはすぐにに気が付いて嬉しそうに笑った。
「おおっ、現れたな技神まーの手下! ちょうどひますぎて戦いたくってうずうずしてたとこだぜー!」
 技々みみみはまだ年端もゆかぬ少女だった。戦闘向きの簡素な白い服を来て、手には頭大くらいの緑の球体がついた変わった棒を持っている。あれが彼女の武器「わざぼー」だと技神まーから聞いていた。わざぼーを相手に当てて適当に思い付いた技名を叫ぶと本当にその技が出るらしい。その説明だけでも意味不明だったが、実際に見たそれは緑の球体に大きな目口までついていて、さらに意味不明だった。
「さあ、かかってこい!」
 とわざぼーを構えた技々みみみは、おや、と首をかしげる。
「なんだオメー、変わった剣持ってるなあ?」
 言われて初めてはマグロ包丁を握りしめたままであることに気が付く。ほっそりと長いその刃は、確かに戦闘用としてはかなり変わっていた。が、わざぼーほどではないだろうと言い返そうとした時、
「あれは剣じゃない。マグロ包丁だな。 お前、マグロ解体師なのか?」
 わざぼーが喋った。しかも意思を持ってに尋ねてきた。ますます意味不明だと思いながら、はそうだとうなずいた。
の名前は。どんなマグロでもさばく力を持つ!」
「どんなマグロでも、だと!? クロもキハダもビンチョウも、カジキでさえもか!?」
 わざぼーがマグロの種類を列挙しても、は全く動じなかった。それどころか、その名の魚を絶対にさばけるという妙な自信だけが勝手にふつふつとわいてきた。
「もちろんだ!」
「くっ……恐るべしマグロ解体師、!」
「……あのさあ、どうでもいいけど早くバトル始めねえ?」
 技々みみみは白けた表情で相棒に言った。それからを見据え、
「なんかすげーやつっぽいけど、オメーはアタシに勝てないぜ。なぜならアタシは、マグロじゃねえ!」
 その通りだった。マグロならば見た瞬間に振るうべき刃の流れが分かるでも、相手が人間とあっては手の出しようがなかった。元々、技神まーの力がなければ、マグロ包丁だってまともに扱える訳ではないのだ。
 痛いところを指摘されてたじろぐとの間合いを、技々みみみは一気に詰めた。わざぼーの緑の頭が、の胸元にちょんと当たる!
「残念だったな。アタシはマグロよりも……」
「マ、マグロよりも?」
 技々みみみは、に向かってにやりと笑った。
「ブリのほうが好き弾!!」
 瞬間、強い衝撃がの身体中を駆け、はるか上空へ吹き飛ばされた。鼓膜をうち破るような風鳴りが響き、はそのまま気を失った。








 目が覚めるとは薄暗い場所に寝転がっていた。ぼんやりと天井を眺め、そうか、技々みみみに負けたんだ、と思い出す程度に判断力が回復した頃、ぬっと目の前が黒く塗り潰された。
「しくじったか。」
 影の中で火が二つ、を見下ろしている。技神まーだ。
「技々みみみを倒せなかったな、。」
 技神まーが再びに話しかける。静かなその声色からは怒りも失望も感じられない。彼の意図を計りかねたまま、はただ首を縦に振るしかなかった。
「フン……じゃあ約束通りお前は、」
 約束なんてしてない、とも思ったが、どうせあの時マグロをさばけなければ閉ざされていた道、今さら惜しくはなかった。は覚悟を決め、目をつむった。
「オレさま専属のマグロ解体師になってもらうぜ。」
 飛び込んで来た言葉に、は慌てて視界を取り戻し技神まーを見た。そして身を起こし、もう一度彼を見た。
「何だって?」
「聞こえなかったのかよ。てめぇは一生オレの為にマグロをさばくんだ。」
 にたりと笑って技神まーは言った。ああ、彼ははじめからこうなることが分かっていたのだ。やられたと悔しがると同時に、はその要求なら確実にこなせると思った。他でもない技神まーのおかげで、は今やどんなマグロでもさばく自信に満ちている。クロでもキハダでもビンチョウでもカジキでも。はどんなマグロだってさばける。技神まーの為に、一生。

 技神まーの根城、暗黒ま城内の一角に、一軒の寿司屋が門を構えている。はその店でマグロを切る。が立つ厨房に面したカウンターでは、いつものように技神まーがのさばいたマグロの寿司を食べている。
「今日は活きのいいのが入ったんだ。どう?」
 が尋ねると、
「悪くねぇ。」
 ちゅるりと舌なめずりをして、まーが答えた。


Fin.





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