落ちなかった百個のきのみと
少女が歩む一個の夢







* 百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百… *


 初めてその景色を見たのはいつだったろうか。

 澄んだ青に銀の雲が浮かぶ空に、虹色の線がゆるやかなアーチを描いている。雨上がりだろう。たくさんの果実をつけて生い茂る樹木も、草も、空気も、何もかも、綾絹のようにきらきらと輝く水滴をまとっている。
 きれい。
 ため息をついたその瞬間、目の前の果実がひとつ、柄から外れる。
 あ、落ちる――。

 初めてその景色を見たのは、高校二年生の夏休みに入ってすぐの頃だったと思う。「見た」と言っても、物体の反射した光が網膜に刺激を与えその情報が脳に届いた、という意味ではない。アユはそれを夢で見たのだ。
 一度目を見た時、その夢があまりにも鮮やかだったので、アユはノートに書き留めたほどだった。こんな美しい夢をまた見たい。そう願って何度も思い返していたからだろうか。数日後、アユは全く同じ光景の夢を見た。そして三度目は今朝。こんなことは初めてだった。何か特別な意味のある夢かしらと、アユは自室のベッドに寝転がったまま、寝ぼけまなこでスマートフォンを起動し、検索ボックスに「夢占い」と文字を打ち込む。特に有益そうな内容も見つからないまましばらくぼんやりと画面を眺めた後、はっと時計を確認し「やばっ、早く支度しなきゃ」と起き上がった。

 アユはアサギシティの公立高校に通う女子高生だ。自宅はシティの中心地から北にずっと離れた片田舎。父親もアユもバスで一時間ほどかけて職場や学校に通うような場所で、地元にあるものといえば山、田んぼ、畑、こぎれいな集合住宅地とチェーンのディスカウントストアくらい。華の女子高生が好むショッピングモールや話題のスイーツショップなんて当然あるわけもなく、部活にも塾にも入っていないアユが夏休み中やることといえば、学校の課題や諸々の家事、祖父の農作業の手伝いくらいだった。
 けれども今日は、そんな単調な夏休みがぱっと色づく日。高校の友達とプールに遊びに行く約束をしている日だった。
 手早く朝食を済ませ身だしなみを整えると、アユはお気に入りの服に袖を通す。今日のコーデは、腰の大きめリボンがチャームポイントのマリル色ワンピースに、透け感のあるレースカーディガン。黒髪を下の方で三つ編みに結ってふんわり垂らせば、アサギのおしゃれな街並みにもぴったりの夏コーデの完成だ。
 みんな元気かなあ、と鏡の前でヘアピンを選びながらアユは考える。テニス部のユウカはきっと真っ黒に日焼けしているに違いない。みいちゃんは夏休みに入ってからハネッコを育て始めたらしいから、どれくらい大きくなったか聞いてみよう。
 ヘアピンは星形に決めた。アユはプールバッグを肩に提げ、いってきまーす! とうきうき家を出た。

「おはよう、ポポ! 今日はお出かけだから一緒に遊べないんだ、ごめんね。夕方には帰るからー!」

 アユが手を振った先にはポッポとピジョンの群れがあった。自然豊かなアユの家の近くでは、野生ポケモンを見かけることもよくある。あの群れも時々姿を見せる一団で、中でも特に人懐っこい一羽のポッポを、アユはポポと呼んで親しんでいた。
 ポポはアユに近づこうとして足を止め、首をかしげながら仲良しな少女の背中を見送った。





「でなーでなー、ヒマワリちゃんってハネッコにしては珍しくはねるの下手なんやって。『はねる』が使えないハネッコ初めて見たってポケモンセンターの人に言われたわ。」
「いろんな個性のポケモンがおるんやねえ。普通は覚える技を覚えへんなんて。」
「うちバトルせえへんからええよ。むしろ家の中でもおとなしいから助かってんねん。」
「バトルしたとしても『はねる』は意味ないけどね。」

 あはは、と楽しそうに響く女子高生三人の笑い声。
 アユたちはプールで思いっきり泳いではしゃいで遊んだあと、カフェに入っておしゃべりに興じていた。今の話題はみいちゃんが育て始めたハネッコのヒマワリちゃんについて。みいちゃんはすっかりヒマワリちゃんにべたぼれらしく、話の尽きる気配はまったく見えなかった。

「アユはポケモン持ってないやんな?」

 だから突然こちらに話が振られた時、アユはちょっと反応が遅れた。

「うん、持ってない、私は。おじいちゃんが農作業用に何体か持ってるけど。」
「ポケモン嫌いなん?」
「そんなことないよ! ポケモンは好き。あ、家の周りにポッポの群れがいてね、一羽だけすっごい寄ってくる子がいるから、勝手にポポって名前付けて可愛がってる。ぽぽぽって鳴くから、ポポ。」
「はは、安直ー。でもいいな。あたしんとこは親があんまりポケモン好きやないから、そういうのも駄目。弟はその反発で家出てどっかでポケモントレーナーやってる。」
「たくましいんだね、ユウカの弟さん。」
「いやいや好き勝手やってるだけよー。あたしにだけはたまーに連絡くれるから、まあそれが救いかな。」
「ポケモントレーナーかあ……。」

 みいちゃんが水の入ったグラスに口をつけ、少し遠くに目をやりながらつぶやく。

「なるとしたら、今が最後のチャンスやなあ。」
「え、そうなの。」
「そうやでアユ! うちらもう高二やん。」
「そうだけど。ポケモントレーナーに年齢制限なんてあったっけ。」
「ないけどやなあ。ここまできたらもう進路もなんとなく決まってるし。あれ、そういえばアユ、進路希望まだ出してないんやったっけ?」

 みいちゃんに問われてアユは、ぎくりとした。
 進路希望とは、どの大学を受験したいか生徒の意向を学校側が把握するための、希望調査のことだ。中には受験せずに就職やポケモントレーナーを志望する子もいたけれど、それはごく少数。アユの高校は公立とはいえそれなりの進学校だったので、多くの生徒は大学への進学を希望していた。
 夏休み前に実施されたその調査用紙を、アユは白紙のまま手元に残していた。

「や、まあ、あの、夏休み明けたら出す……よ。」

 もう高校二年生の夏だ。大学、特に難関校に入学したいのであれば、今から目標を見据え、本格的に受験勉強を始めなければ間に合わない。
 アユにだって夢はあった。アユはポケモンが好きだ。いつか人とポケモンの役に立つ仕事がしたいと思っている。けれどもそれだけでは、進路希望調査用紙に大学名を書くにはあまりにも漠然としすぎていた。

「アユはうちと違って頭もええし、ポケモン好きなんやったらポケモンドクターとかポケモン看護師とか目指したらええんちゃうん?」
「ポケモンスクールの先生になるのもいいやんね。教員免許取るだけやったらどこの学部でもいいし。」
「ポケモン関係の仕事って意外と色々あるよな。ポケモングッズのショップとかメーカーとかもそうやし、あ、そうや最近は特定のポケモンの専門美容室とかもあるやろ?」

 次々に提示されるみいちゃんとユウカの案に、アユはひとつひとつうなずいていた。
 人とポケモンは古くから互いに深く関わりあってきた存在だ。「人とポケモンの役に立つ」形は、考えれば考えるほどいろいろ浮かんできた。十六歳の少女にとっては、どの可能性もとてもわくわくして心躍るもので、だからこそアユは選べなかったのだ。進路希望としてどれか一つの答えを書くことは、選ばなかった他の道を絶ってしまうことになるような気がして。自分の手で自分の可能性を潰すのは、あまりにも辛いことのような気がして。
 真っ白な紙を前に動けないでいるアユを見て、担任の先生はあまりいい顔をしなかった。ただ、焦って決めてもよくないとも思ってもらえたのだろう。アユは二学期が始まったら必ず進路希望先を決めることを条件に、用紙提出の先送りを許された。

「アユの可能性は無限大! 未来への希望にあふれておりますなー。」
「頭いい子はちゃうよねー。あたしにもアユの脳みそ分けてー。」

 ユウカが無茶を言いながら、アユの頭に両手をかざしてふわんふわん揺らした。そんなことしても分けられませーん、などと笑っていたところ、注文したスイーツが運ばれてきた。

「お待たせいたしました。フレッシュフルーツのラジオ塔パンケーキ、濃厚ガトーショコラのシロガネ山仕立て、とろけるモーモーミルクリームとぱりぱりキャラメリゼのカタラーナでございます。」

 まるで幸せを溶かして焼いて盛り付けたかのような三皿が置かれた瞬間、楽しげにじゃれあっていた彼女らの視線はもうスイーツにくぎ付けだった。わーっと歓声を上げながらスマートフォンで撮影会。いただきまーす! と各々のスイーツを口に運んでまた歓声。「美味しい」「すごい」とこぼれ落ちた感想をせっせとフォークやスプーンですくうのに夢中になってしまったから、その後アユの進路希望について話が続くことはなかった。





 帰りのバスの時間があるアユは、名残を惜しみつつも一足早く二人と別れた。
 アサギシティの中央区から自宅方面へ向かうバス停が見えた時である。アユは見慣れない男性がバスを待っているのに気がついた。短い丈の赤いジャケットに、動きやすそうな黒のカーゴパンツ。ポケモントレーナーかと一瞬思ったが、それにしては荷物が少なすぎるし、モンスターボールを収納するためのホルダーも見当たらない。代わりに彼は右手首にごつい腕時計のような、大ぶりの装飾がついた何かを着けていた。見たことのない出で立ちの人だ。

「あ、すみません。このバスって北側の山間部まで行きますか?」

 先に話しかけてきたのは男のほうだった。二十代の前半だろうか。茶色い短髪のこざっぱりとした印象の青年だった。
 アユは黙ってこくりとうなずく。
 男はありがとう、と言って時刻表を確認した後、もう一度アユの方を見て尋ねた。

「これと同じ行先のバスって他にもありますか?」
「いえ……山の方まで行きたいなら、この路線だけです。」
「そっか。じゃああと五分くらいで来るし、これに乗って行くかな。」

 ひとり納得してうなずいていた青年はそこでようやく、いぶかしげに彼の右手を眺めているアユの視線に気がついたようだった。

「キャプチャ・スタイラー、見るの初めて?」

 アユはどきっとして不思議な腕輪から目をそらし、青年の顔を見た。彼は優しく微笑んでいた。

「オレはポケモンレンジャーのハジメ。ポケモン密輸の取り締まりでアサギシティに来たんだ。」
「ポケモンレンジャー、さん。」

 アユも聞いたことくらいはあった。ポケモン同士、または人とポケモンの間で問題が発生した時に活躍するポケモンのエキスパート、ポケモンレンジャー。ポケモントレーナーとは違いポケモンをゲットするのではなく、キャプチャ・スタイラーという機械を使ってポケモンと心を通わせることで、事態の収拾をつけるのだという。テレビやネットなどで話を聞くことはあっても、実際にその職業に就いている人に会うのは初めてだった。

「少し前に、イッシュ地方からアサギ港にポケモンの違法輸送があってね。犯行グループは捕まったんだけど、まだ何体かのポケモンが行方不明のままなんだ。そのポケモンを探して保護するのが、オレのミッション。」
「へえ……すごい。」
「次は山間部の捜索をしようと思ってるんだけど、キミの家、もしかして近く? 良かったら分かる範囲でいいから、地形について教えてもらえると助かるな。」
 
 そういうわけでアユはハジメと一緒にバスに乗り合わせることになった。
 ハジメがタブレット端末に表示させた地図を見ながら、アユは質問に答え、気づいたことをコメントする。ここは半月前の大雨で崩れて今は通れません。この辺りは野生のヤミカラスの巣があるからいたずらされないよう気をつけてください、などなど……。
 素人の高校生が提供できる情報などたかがしれていたが、ハジメはとても感謝して頭を下げてくれた。

「なるほど、アユさんは高校生なんだ。」

 長いバスの乗車時間。早々に終わった業務会話の後、二人はどちらからともなく雑談を始めた。

「はい、アサギシティの学校に通っています。今は夏休みだけど。」
「けっこう大変な通学路だなあ。勉強は楽しい?」
「はい! どの科目も好きです。」
「へええ、すごいな! じゃあ卒業後は進学?」
「えっと、たぶん。将来は、人とポケモンの役に立てるような仕事に就けたらいいなって、思ってはいるんですけど……ドクターとか、先生とか。でもどれも興味がありすぎちゃって、なかなか一つに決められなくて。」

 苦笑いするアユに、ハジメは首を振ってみせた。

「いやすごいことだと思うぜ。その興味関心は大切にしたほうがいい。オレなんか物心ついた時からもうポケモンレンジャーになることしか頭になかったから。」
「へええ、物心ついた時から?」

 今度はアユが感心する番だった。
 ハジメは十年くらい前にはもうポケモンレンジャーとしての活動を始めていたそうだ。あの頃はオレもパートナーのムックルもまだほんのひよっこで、とはにかむハジメに、もっと話を聞かせてほしいとアユがせがむと、彼は初めてムックルと二人で受けたミッションについて語ってくれた。落石事故の原因調査の末、暴れているドダイトスをキャプチャして鎮めたところで、ちょうどバスが降車駅に到着した。

「いろいろありがとう。助かったよ。そうだ、もしこの辺りで見慣れないポケモン……密輸されたイッシュ地方のポケモンを見かけたら、オレに連絡をください。はいこれ連絡先。」

 バスを降りると、ハジメはそう言ってメモ用紙に走り書きし、アユに差しだした。アユは分かりました、とそれを受け取った。
 ところで、「ぽぽぽ」と小さな鳴き声が聞こえる。

「あっ、ポポ! 迎えに来てくれたの?」
「ポポ?」

 ハジメがのぞきこんだ先、アユの足元に一羽のポッポがいた。
 キミのポケモン? と尋ねるハジメに、いいえとアユは笑って答える。

「近所に住んでる野生のポケモンです。なんかこの子だけ人懐っこくって。ポポって呼んでるんです。」
「そうか。ポポ、初めまして。オレはポケモンレンジャーのハジメ。アルミア地方から来ました。」

 差し出された手の方へ、ポポはちょこちょこと近寄った。ハジメに指先であごの下をくすぐられ、目を閉じてくるくるのどを鳴らしている。さすがポケモンレンジャー、野生ポケモンの扱いはお手の物という感じだ。
 それからポポは、ぴゅっと羽を広げアユの足元に戻ったかと思うと、くるくる鳴いてアユを見上げた。ハジメの真似をしてアユがあごの下をくすぐってやると、気持ちよさそうに目を細めて尾羽をぷるぷる震わせた。

「アユさんはポポと仲良しなんだな。そうだ、そんなポケモン好きのアユさんに、オレの相棒を紹介しよう。」

 ハジメは一個のモンスターボールを取り出すと、ひょいっと放り投げた。現れたのは墨を流したような白黒の体に、とさかと瞳の赤色が映える大型の鳥ポケモン、ムクホーク。ハジメの話に出てきたムックルの進化した姿だった。少々の雨風などものともせず飛行できそうな、引き締まった体付きや翼のつやめきに、アユは思わず見とれてしまった。

「オレのいっちばん大切なパートナーさ。」

 にっこり笑ってハジメがムクホークの背中に手を当てると、ムクホークはうれしそうにすりすりとハジメにくっついた。
 それからハジメが何か指示すると、ムクホークはうなずいて空へと飛びたった。同じ方角へハジメも歩きだす。「それじゃまたな。勉強頑張って」とアユを振り返って手を挙げるので、アユも手を振り「ハジメさんたちもお気をつけて」と見送った。

「……かーっこいいねぇ、ポケモンレンジャー。ポケモンの力を借りて平和を守るなんて、憧れちゃうなあ。」

 ハジメの姿がすっかり見えなくなってから、アユはため息混じりにポポに話しかける。うっとりと見つめているその先にポポも目をやったが、そこには茜に染まり始めた空しか見当たらなかったので、ポポは視線をアユに戻し、首をかしげた。
 アユはふふと笑ってしゃがみこむと、ポポをなでた。ポポもうれしそうにすりすりとくっついてくる。仲の良さだけで言えば、私たちハジメさんとムクホークにも似ているのではないだろうか。そう思うとちょっぴりくすぐったかった。
 ポケモンレンジャーのように平和を守るとまではいかなくても、もしもポケモントレーナーになってあんなふうに相棒ポケモンがいたならば、と考えないわけではなかった。十歳になってポケモントレーナーになる権利を得た時、アユはその道にむしろ興味があったほうだ。ただ勉強も好きだったから、もう少し色々な知識を蓄えてから旅立っても遅くないのではと判断した。勉強を続けていれば、例えばポケモンドクターとかポケモン関連法案に詳しい弁護士とか、たくさんの学力が必要な仕事もできるようになるかもしれない。みいちゃんはポケモントレーナーになるなら今が最後のチャンスと言っていたけれど、アユはそんなことはないと思う。ポケモントレーナーにはいつでもなれる。アユはまだ、ポケモンドクターにもポケモントレーナーにもなる可能性を秘めている。
 もしもポケモントレーナーになって、ポポや他のポケモンたちの力を借りていろんな所を冒険できたら。そう空想すると、心に翼が生えてどこまでも飛んでいけそうな気分になった。



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この小説は「ポケモンストーリーテラーカーニバル テーマA」に投稿した作品です。
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