その喧嘩の始まりは、確かにが悪かった。
ある安宿に泊まった時のことだ。が顔を洗おうと水道の蛇口をひねったら、どこか壊れていたのか、勢いよく水が飛び出した。幸いに被害はなかったのだが、運の悪いことに、丁度そこにやって来たモッツァレラの顔に水がかかった。
「ご、ごめん!」
はとっさに側にかけられていた手ぬぐいをひっつかみ、モッツァレラに渡した。
「もうー、何なのよー。」
と顔を拭くモッツァレラの文句は、次の瞬間悲鳴に変わった。
「いゃああああ!!」
宿がきしむほどの大声には驚いたが、すぐに原因が分かった。モッツァレラに渡した手ぬぐいに、黒い虫がくっついていたのだ。
モッツァレラは手ぬぐいを床に打ち捨てると、急いで顔を洗い始めた。たぶん、虫を顔に擦り付けてしまったのだろう。
「、ごめん!」
必死に謝るの心はしかし、モッツァレラの怒りの炎に燃やされた。
「、最低!!」
そしてモッツァレラはのほうを振り向きもせずその場を後にし、今なお口もきいてくれないという訳だった。
は少なからず傷ついた。そりゃあモッツァレラには気の毒なことをしてしまったが、わざとではないのだし、きちんと謝りもした。
「あんな言い方しなくたってさ……。」
そういう次第で自分から謝る気にはなれず、といってモッツァレラから謝ってくるはずもなく、は釈然としない気持ちのまま、一人部屋にこもって窓の外を眺めていた。
「、ここにいたか。」
部屋に入ってきたのはカラスミだった。どうやらを探していたらしい。
「どうした、顔色が悪いな。」
不機嫌な表情はすぐにカラスミに知れてしまった。は、いえ……と口ごもる。それから何と言おうか考えるよりも先に
「モッツァレラと喧嘩をしたのだろう。」
ぴたりと言い当てられてしまった。
「知っていましたか……。」
二人の騒動を見ていたか、あるいはモッツァレラから話を聞いたのか。いずれにせよは恥ずかしいような情けないような何とも言えない心持ちになって、半泣きの顔を隠すようにうつむいた。
カラスミは黙っていた。じんとした静けさが部屋の中に広がる。その響きに耐えかねて、何か言おうか、しかし何をどう言えばいいのか、とがぐるぐると悩み始めた頃、カラスミはようやく口を開いた。
「お前への用向きだが、。」
「あ、はい。何でしょうか。」
「俺と一緒に菓子を作らないか。」
突然の提案には目を丸くした。
カラスミは料理が得意だった。食事が付かない宿に泊まった時や、野宿をする時などは、大抵カラスミが調理を担当した。彼曰く、食事とは心身の均衡を保ち、強さと力を発揮するために必要であり、だから彼の調理技能は最低限身につけているにすぎないのだそうだ。
だが本当にそれだけの理由でカラスミは料理が得意ではないのだろうと、は内心思っていた。確かにカラスミの料理は決して豪華ではないし、種類もそれほど多くはない。しかし、美味しかった。はカラスミの作る料理が好きだった。時々それをカラスミに直接伝えることもあったが、カラスミはいつも、そうかと言うだけで、その分野において優れることに興味がないのか、実は嬉しいと思っているのか、よく分からなかった。
宿の台所を借りて、カラスミはすでに機器と食材の準備をほぼ終えていた。
「今から作るのは、小麦粉を練った生地を焼いて作る菓子だ。砂糖を抜けば簡単な食事にもなるし、他の穀物粉にも応用が効く。しっかりと覚えるんだぞ。」
砂糖を計量しながらカラスミが言う。そう、これはあくまでも実務訓練だった。カラスミに頼らなくても戦えるよう鍛錬するのと同じように、カラスミに頼らなくても食事ができるよう覚えなければならない事項だった。
それなのには、なんだかうきうきしていた。
「はい!」
カラスミは小麦粉に少量の膨らし粉を加えて振るい、砂糖、卵、牛乳を加えて混ぜることを教えた。
「粉っぽさがなくなるまでよく混ぜる……こうだ。やってみろ。」
カラスミから泡立て器を受け取り、は見よう見まねで生地をかき混ぜてみる。するとすぐにカラスミがの後ろに立ち、背中から彼女をいだくようにして手を取ると、こうだ、と動きを修正した。ふんわりくっついた背中とお腹。カラスミの大きくて温かい手に包まれたの手が、踊るように生地をなめらかにしていった。
「フライパンに薄く油を引き温めた後、ぬれ布巾の上に置いて一旦冷ます。」
カラスミは手際よく説明と調理を続ける。生地をフライパンに丸く流し入れ、ぷつぷつと泡が生じればひっくり返す好機だということ、きつね色の焼き加減をよく見て覚えるようにと言いながら見せたカラスミのその菓子は、本当に美しいきつね色をしていた。促されるままに今度はが焼いてみたが、ひっくり返すのに失敗してぐちゃりと潰れた楕円形になった。
「最初は誰しもそんなものだ。」
悲しそうなの頭にカラスミは手を置く。
「もう一枚焼いてみなさい。」
今度は上手くいった。焼き色も、カラスミのものほどではないがまずまずの出来映えだ。
「できました、カラスミ様!」
「よし。」
カラスミは短く誉めた。それはが上手に炎を操れた時と同じ言葉と意味だったが、はその時初めて、今までにないものを見た。
カラスミが微笑んでいる。
もちろんカラスミがふと微笑むことはこれが初めてではない。だが、こんな幸せそうなというか、嬉しそうというか、穏やかな微笑は、初めてだった。と、そう思っているうちに、その珍しい笑みは溶けてなくなってしまった。熱い鉄板に落ちたバターのように。あるいは舌の上に乗った粉糖のように。
じっとカラスミを見ているに、彼はただ残りの生地も早く焼いてしまえと命じただけだった。ははい、と返事をして次を焼き始めた。それは最初のよりも、その次のよりも上手に仕上がった。
カラスミは満足そうにを眺めていた。
あと三枚分ほどになるまで生地を焼いたところで、カラスミが残りは俺が焼こう、と言った。
「は皆を呼んで来い。おやつの時間だと。」
その時間は、厳しい修行と旅の中では滅多に見かけない時間だった。しかし、こうしてふとした機会に現れるそれは、束の間の休息。いつもは鋭いカラスミの眼差しもどこか安らいで見える、皆の大好きな時間だった。が知らせに行けばきっと喜ぶだろう……モッツァレラも。
モッツァレラ、まだ怒ってるかな。
は不安げな瞳をちらとカラスミに向けた。するとそれを知って待っていたかのように、カラスミもを見ていた。
「もちろん、モッツァレラも呼んで来い。」
後押しとも命令ともつかぬ口調だった。ははい、と返事をした。
「、おやつの時間だよ!」
ピロシキはわあ、ほんとでしゅか、やったあ! と叫ぶと、嬉しそうな足取りで食堂に向かった。
「、おやつの時間だよ。今日はね、が作ったんだよ!」
タンタンメンは、何も言わずを見た。彼はきっと隠そうとしていたのだろうが、その表情に驚きと喜びがたちまち満ちてくるのをは見てとった。うん、と小さくつぶやきながら、タンタンメンはいそいそと食堂に向かった。
そしてモッツァレラは、少し探した後、見つかった。彼女は宿の外に置かれた長椅子にひとり腰かけて、何となしにぶらぶら動かしている自分の両足を見つめていた。
「……。」
はそっと、呼びかけた。モッツァレラはを見た。それから気まずそうにうつむいた。
も気まずくなった。どうしよう、何て言おう、とひるんだの頭によぎったのは、モッツァレラも呼んで来いとのカラスミの命令。カラスミ様の命令は絶対だ。はある意味で、諦めた。
「あのね、カラスミ様が、おやつの時間だって呼んでるの。その、今日はが作ったんだよ。だから一緒に、食べに行こう?」
モッツァレラは再びを見た。おやつの時間と聞いて、その顔には明らかに喜びの輝きが見えた。不機嫌な感情で少し曇りはしていたけれど。
「……うん。」
かろうじて聞き取れる声で返事をすると、モッツァレラは食堂に向かった。は少しだけ安堵して、彼女の後を追った。
一つの卓を五人で囲む形に、椅子と食器が並べられていた。ピロシキとタンタンメンはすでに席についており、目の前に置かれたおやつを食べていいとの許可が出るのをもう待ちきれない様子だった。遅れて食堂にやってきたとモッツァレラに、早く早くと目で訴えている。
とモッツァレラのために空けられた席は隣り合っていた。二人はちらりと互いを見、少しぎこちなく座った。全員着席したのを確認するとカラスミもおもむろに椅子にかけ、ではいただこうと号令した。
「いただきまーしゅ!」
誰よりも元気よく声を出したピロシキは、一口食べるなり、美味しいー!
とまた声を上げた。タンタンメンはいただきますを言ったきり黙っていたが、それもそのはず、口の中がいっぱいだった。
「今日のはが作ったんでしゅよね?」
もう一枚目をたいらげたピロシキが尋ねる。
「うん、そう。カラスミ様が作ったのもあるけど。」
「今ピロシキが食べたのは、が焼いたものだな。」
とカラスミが補足。
「とっても美味しいでしゅ。ありがとう!」
にっこり笑顔のピロシキを見て、は嬉しくなった。
「どういたしまして。」
今日は最悪の日だと思ったが、カラスミにお菓子作りを教えてもらって、こうして皆でおやつの時間を過ごすことができて、まあいっかとが喧嘩のことを無理やり飲み込もうとした時だった。モッツァレラが、小さな声で何かつぶやいた。
「え、何? ?」
「……美味しい、って言ったの。」
モッツァレラはの方を見もせず、怒ったような口調でそう言った。なんだかちょっと照れているようにも見えた。は少しだけきょとんとしたが、良かった、と答えた。
ピロシキとタンタンメンは、二人の様子がいつもと違うことは分かってはいるのだが、どのように口ないし手を出していいものやら判断がつかなかったので、互いに困ったような視線を交わすだけにとどめた。
カラスミは黙って食べていた。
そうしてしばらくは静かな食卓が続いたが、その静けさにも飽きてピロシキが他愛もない雑談を始めたり、タンタンメンがカラスミにはちみつを求めたりしだした頃、モッツァレラは再び、にだけ聞こえるように、口を開いた。
「……ごめん。」
はモッツァレラを見た。モッツァレラはうつむき、皿の上に視線を落としていた。彼女の菓子はほとんど食べ進んでいなかった。どうやらそれを口に運ぶことよりも大事な作業をしていたらしい。例えば、何をどう言うか考えるとか。
が無理やり飲み込もうとしてのどにつっかえていたものは、スッと腹に落ちた。は遠慮がちに微笑んだ。
「も、ごめん。」
モッツァレラがようやくの方を見た。そして同じように微笑んだ。
それで二人の喧嘩は終わりだった。とモッツァレラは前と同じように、いや、前よりももっと仲良く、おやつの時間を過ごし始めた。
「タンタンメン! モッツァレラにもはちみつちょうだい!」
「、にも!」
「な、なんだ二人とも。今日は静かでいいと思ってたのに……。」
「なによー、人がいつもうるさいみたいな言い方して!」
「うるさいだろうが!」
「何ですって!」
「やめなよ……って言いたいところだけど、今もうるさいって言われたから今日はの味方する!」
「なんなんだよまで……。」
「ふふふ、タンタンメン二対一じゃ勝てっこないでしゅね。」
こうして、彼らの楽しい時間は過ぎていく。
カラスミは少し口端を上げて、やれやれ、と声には出さず小さくため息をついた。
Fin.