屋根の上に、人がいた。あまり頻繁に見るような光景ではなかったから、は思わず足を止めて、その人のほうを見上げた。
その人は、風見鶏の隣に腰かけていた。に対しては背中を向けるようにして座っていたから、顔は見えない。後ろ姿だったので男か女かも判断しかねた。エメラルド色の長い髪をきゅっとひとつに束ね、その人は白い雲の流れる、青い空を仰いでいた。風見鶏が風を受けてくるくる回るたびに、その長い髪がふわりと揺れた。 あんな所で一体何してるんだろう。は思った。 と、再び風が優しく側を吹きぬけた時だ。風見鶏がそのくちばしをくるっとのほうに向けたのと同時に、何の拍子か、緑の髪のその人もくるっとこちらを振り向いた。その瞬間、離れた屋根の上にいる人と自分の瞳が一直線上に乗ったのを、は感じた。その人はじっとのほうを見ている。彼女は少し気恥ずかしくなり、つと目をそらした。それからもう一度そっと屋根の上を見やってみて、彼女はあっと声をもらした。屋根の上にはもう、くるくる回る風見鶏しかいなかった。 どこに消えちゃったんだろう。は辺りを見回した。だが誰もいない。は目の前の建物をのぞきこんでみた。あの人が乗っていたのは、ここの屋根の上だ。小奇麗なその建物は、一般民家というよりは、何かの施設みたいだった。もう少し奥のほうまでのぞいてみると、この建物の名称だろうか、文字が見えた。 「みんななかよしハウス」と読めた。 「みんななかよしハウスに、何かご用ですか?」 はハッとして声のしたほうを振り返った。はたしてそこには一人の少年がいた。長く伸ばしたエメラルドの髪を後ろでひとつくくりにしている少年だった。彼はに微笑みかけると 「正面玄関はあっちだよ。」 と教えてくれた。 「あっ、ううん。違うの。はたまたま通りかかっただけ。」 はせっかくの少年の親切に申し訳ないと思いつつも、あわててそう答えた。 「屋根の上に人がいたからびっくりしちゃって。」 ああ、と少年は笑った。笑った時の彼の顔はとても可愛らしかった。 「そうだったのか。驚かせてしまってごめんね。」 「あの……どうして屋根の上にいたの?」 は尋ねた。少年は風見鶏を仰ぎ見、少し間をおいてから、 「風の歌を聞いていたんだ。」 はとっさにあいづちを打つことができなかった。風の歌を聞くだって? なんてとっぴなことを言うんだろう。しかし、彼がをからかっているようには見えなかった。彼はただ、深い金色を帯びた瞳の中に、子供のように純粋な光をたたえているだけだった。それはまるで、川底に光る砂金の粒にも似ているようだった。 「奇妙に聞こえる?」 ろくな返事もできずにいるに気を悪くしたような様子はちっとも見せず、少年はむしろ楽しそうにそう聞いた。 「だけど、風は本当に歌うんだよ。」 ふっと風が吹いた。少年の長い緑の髪がそよいだ。風見鶏が小さくキィキィと鳴いた。心地の良い風だった。だが、はその中に歌を聞くことはできなかった。 「君は、なんていう名前なの?」 「……。」 「そう、っていうんだ。僕はウィンナー。……ねえ、は風の歌、聞いたことある?」 尋ねられて、は風の奏でるメロディーというものを想像しようとした。だがそれはあまり容易なものではなく、 「うーん……。物のすきまを抜ける時のヒューっていう風の音なら分かるけど。」 結局そう答えてしまった。ウィンナーはそれは少し違うかな、と首をかしげる。 「今日みたいなきれいな青い空の日に、風は歌うんだ。だから僕は時々ああして屋根に登って、風の歌を聞く。」 「へえ……。風は、どんな歌を歌うの?」 「いろんな歌を歌うよ。優しい歌や、悲しい歌。短い歌に、長い歌……」 それからウィンナーは気持ちよさそうに風を受けた。まるで本当に風の歌声を聞いているみたいだった。 「今日の風は、とっても嬉しそうに歌っている。」 「も聞いてみたいな、その歌。」 束ねた長い髪を風に流しているウィンナーを眺めながら、はそう言った。 「君にもきっと聞こえるようになるよ、。」 ウィンナーはにっこりと微笑んだ。 「だって、君は澄んだきれいな目をしているから。」 ウィンナーの瞳が、じっと自分を見据えていた。そう言った彼のほうこそが、とても澄んだきれいな目をしていた。おだやかに光るその金の目にまるで見透かされているようで、はほんのり頬を染め、彼から視線をそらしてしまった。風見鶏がどこか遠くでキィと鳴いていた。 「もう行かなきゃ。」 は少しまごつきながら言った。 「ああ、引き止めちゃったみたいだね。ごめん。」 「ううん。いいのよ、全然。それに……おかげで風は歌うんだってこと、知ることができたし。」 言ってはウィンナーに笑みを見せた。ウィンナーも嬉しそうに、そう、それは良かった、と答えた。 「それじゃあ、ウィンナー。またいずれどこかで。」 「うん。僕も、君にはまた会えそうな気がする。」 ウィンナーが言った。 「風が僕のいる所にも、のいる所にも、同じ歌を運んでくれる限り。」 はうなずいた。そして、彼に背を向けて歩き出した。少し歩いてからそっと振り返ると、ウィンナーはまだそこにいた。彼は彼のほうに顔を向けたを見て、手を振った。も手を振り返した。 ウィンナー。風の歌が聞ける男の子。とても不思議な人だったな、とは思った。それに、本当にとてもきれいな金色の目をしていた。は彼に別れを告げるのがどこか惜しくて、手を振って歩きながらずっと後ろを、ウィンナーのほうを見ていた。 と、やがて少年の姿も見えなくなり、が再び前を向いて歩こうとしたその時だ。ウィンナーのいたほうからの背中へ向かって、ふわりと風が駆け抜けた。そしては聞いたのだ。その風の中に、わずかに響いた歌声を。 風は一瞬メロディーを置いていったかと思うと、すぐにを追い越し、どこかへ去っていった。 そんなことがあるわけないのに、それはまるでウィンナーが、のためだけにそっと送ってくれた追い風だったような、そんな気がして、はふっと笑みをこぼした。 それから目を閉じて、きらきら輝く空の下、体全体で風を感じてみる。 のいる所で あなたのいる所で 風は、きっと同じ歌を奏でていてくれるよね――。 |