真っ赤に熟れた林檎の実が、鈴なりになっている。収穫されるのを今か今かと待ち望んでいる林檎の木々を見て、アセロラはにこりと微笑んだ。大切に大切に育てた林檎たちが市場に出回る直前のこの光景には、少し寂しくはあれど充実感を感じさせるものがあった。
と、林檎林の向かいの道に人影が見えた。ここからでは枝葉に隠れてその姿をしかと確認することは出来なかったのだが、それでも彼がじっと林檎の樹を見ているのがわかる。
どういったわけか、この林檎畑は直に道路に面している。だから林檎をちょっと取ってしまおうと思えばたやすいのだが、この林檎畑から赤く熟れた果実が盗まれることなんてほとんどなかった。周辺の住人はみな良い人たちばかりなのだ。だからアセロラも、道に見えた人影が林檎泥棒であるわけがないということは知っていた。
アセロラは林檎畑を回り、人影に近寄った。
「こんにちわ。」
赤髪の男だった。男は逆立てたその髪と同じ色をした、真紅の瞳を林檎の樹からアセロラに移し、それから目を少し伏せた。
どこか悲しげな瞳だった。
男は気まずく感じたのだろうか、何も言わずに林檎の樹とアセロラにきびすを返し、その場を立ち去ろうとした。
「あ……ちょっと待ってよ!」
男が振り返る。今度は、その目に冷たい光を宿して。アセロラも彼を呼び止めはしてみたものの、次に続く言葉がなかなか見つからなくて、ややぎこちない笑みを浮かべた。
「林檎、好きなの?」
「……好きだとも嫌いだとも思わない。」
「さっき、林檎の樹をじっと見てたからさ……。好きなのかなって思って。」
男はやはり何も言わず、林檎をじっと見ていた。彼の瞳に映っているのは薄紅のその果実か、それとももっとどこか遠く……。
アセロラはふと思い立って、そばにあった林檎に手を伸ばした。大きく、赤く熟した林檎を手にそっと包み、そしてそれをもぎ取る。林檎の甘酸っぱい香りが、ふっとその場をくすぐった。
「どうぞ。」
「……? 何の真似だ。」
「ははっ。そんなぶっきらぼうな言い方しなくたっていいんじゃない?
これ、あげる。本当はこんなことしたら怒られるんだけどね……。特別にプレゼントよ! あ、他の人には内緒だよ。」
にっこりそう言って林檎を手渡すアセロラを、男はいぶかしげな顔で眺め、しかし手を差し出そうとはしなかった。
「林檎、嫌いじゃないんでしょ?」
答えなし。もっとも、返事を期待していたわけでもなかったけれど。
少しの沈黙の後アセロラは突然、服の袖にすっぽりと隠れている男の手を取った。
「はい!」
なかば強引に林檎を彼の手にのせる。
一瞬、袖の下の男の手があらわになった。明らかに人の手ではない、青白く光る大きな爪。それは所々に黒い影が落ちていた。赤黒く染み付いた誰かの、それとも彼自身の? 血の跡。
男が反射的に手を引っ込めたので、林檎はまるで鋼か石にでも当たったような響きを残し、地面にころんと転げ落ちた。
「……くっ」
大きな爪は再び服の下に隠された。男はもう林檎の樹すら見ようとはしなかった。視線を落とし、ただ虚空を見つめている。いや、彼は最初から虚空しか見ていなかったのか。
「……どうしたの?」
男の瞳はやはり悲しげだった。まるで自分がこの世に生を受けたことを恨んでいるような、呪っているような、そんな瞳だった。
「林檎に虫でもついてたかな? うちは農薬あんまり使わないからさ。」
「……!」
「ごめんね! これでも、細心の注意を払って育ててきたつもりなんだけど。気を悪くしちゃったなら、本当にごめんなさい。」
ぺこりと頭を下げる少女を、彼はただ驚きの表情で見つめていた。そして、絞り出すような声で小さく、ポツリとつぶやく。
「何も……思わないのか。」
「何が?」
「……私の、この手を見て。」
アセロラは彼の質問には答えず、ふっと微笑んだだけだった。
「うちの林檎はね、誰が食べてもいいんだよ。」
男はハッとアセロラの顔を見た。
彼女はしゃがみ、先程地面に落ちてしまった林檎に手をかける。
と、その上に男がすっと手を出した。鋼の爪が肌に触れる。それは人のものではない硬い手で、しかし物が持つ冷たさは感じられなかった。
「あ……。」
「これはもらっておく。」
男は赤い林檎の実を拾い上げた。
「誰が食べてもいいのだろう?」
そう言ってアセロラを見る彼の瞳に、もう悲しみの色は宿っていないようだった。
アセロラはにっこりうなずいた。
「私、アセロラっていうの。」
立ち上がり、彼女は言う。
「それは、アセロラお墨付きの林檎だからね! 絶対に美味しいよ!」
「アセロラ……か。」
男は林檎を手にそうつぶやいた。そして今度こそ本当に彼女と林檎畑にきびすを返し、もう何も言わずに去って行く。
林檎の樹の下で、アセロラは彼を見送った。彼が最後に口には出さずに「ありがとう」と言ったのを彼女は知っていたから。だから彼女は、あの人はきっと林檎を食べてくれると、分かっていた。
「さて!」
アセロラは林檎畑を振り返った。鈴なりになった赤い林檎は、今日の青い空によく映える。
収穫間近のそれらを見て、彼女はもう一度にっこりと微笑んだ。
Fin.